幼少時より、暇さえあれば部屋にこもり、文章や長編マンガを書いていた私。学校の読書感想文で入選経験あり。雑誌に投稿すれば、たいていの場合、採用。
ちょっとした物語を書いて友達に回せば「面白い!」と絶賛。「もしかして私には、いわゆる文才があるのかも?」とうぬぼれたことも少なくありませんでしたが、
単なる自己満足に過ぎませんでした。名声や富を得ることが執筆活動の目的ではありませんが、作品が評価され、
プロの小説家として認められたいと強く思うようになりました。
一方、私は夫のお蔭で食べ物にこそ困りませんでしたが、執筆に集中できる一人の時間がほとんどありませんでした。 当時、長女がやっと幼稚園に行き始めたばかり。二歳の次女は昼寝をあまりしなくても一日中元気一杯。 一般のスイス人家庭では、それぞれが正午に仕事場や学校から帰宅し、家族揃って昼御飯を食べます。 午前中は子供の相手と食事作りだけで終わり。午後は後片付けや子供連れでの買物に大部分を費やします。 長女の幼稚園での拘束時間も日本に比べれば短いものです。自分の時間と言えば、子供達が寝静まった夜しかありませんでした。 誰にも譲れない、自分だけの貴重な時間。一分でも、一秒でも惜しい! こんなにも時間に飢え、24時間が短いと思えたのは、 人生で初めてかも知れません。「時は金なり」とはよく言ったものです。 99年から始めたインターネット・メール交換を通じ、新たに日本在住の友人が沢山できました。 その中の数人に、気負い無く書いたコメディ小説(官能小説とも言われた!)数作を読んでもらいました。 「スイスに住んでフランス語を喋って暮らしていても、日本語文章力は落ちていない」と自負した私は、 小説を書いては文学賞に応募し始めます。最初に書いた中編小説のタイトルは「エトランジェ」。 夫と出会った英国留学の体験がモチーフです。そして、2000年の夏、人生を変えるきっかけとなる閃きが、私を突き動かします。 「あ〜あ、どこにも行けないなんて・・・一人では何も出来ないなんて・・・ほんと、つまらないわ、つまらないわ」
夫の祖母、セシルはベッドに腰掛けてぼやきます。彼女の青白い顔には、かつて私達を驚嘆させた、 「幾つになってもヤンチャで行動的で少女のように無邪気な」若作りおばあちゃんの面影すら見当たりませんでした。 その傍らで私は溢れる涙を拭い続けていました。 (もうおばあちゃんは死んでしまう・・・もうこの世で二度と会えないのだ!) その見舞いの帰り道、私は夫に宣言しました。 「おばあちゃんのことを小説に書く!」 予感通り、セシルおばあちゃんは、私が帰国中の2000年8月6日、愛する七人の子供達に看取られながら生涯を終えました。 この年、「ラ・ヴィ・アン・ローズ」はまだ存在していませんでした。 |