ただ、当初の食料事情、宿泊事情は厳しかった。当初1週間は水や食料の入手が難しかった。被災数日後からバンダアチェ市郊外で食堂や青果店の営業も少し見られたが、もともと交戦地域であり、夜間外出は危ない。さらに被災で一般治安も悪化していたため、夕食のため郊外に出ることはしなかった。 このため、1日1食で過ごした日も3、4日間あった。メダンから持ち運んだ菓子やパンなどをかき込み、疲労を頼りに眠った。昼下がりに避難所で炊き出しのボランティアに取材した際、助手が「朝から何も食べていない」と話し、同情されてインスタント・ラーメンを振る舞われたこともある。津波後1カ月間で体重は3、4`減った。
被災直後、特に貴重だったのは飲料水だ。 メダンからアチェ入りするたびに、1人5g以上を運んだ。被災3日目、バンダアチェ市内で公安警察幹部に出会った。同州では、津波以前は外国人の入境(立ち入り)を厳しく制限していた。入境許可取得が非常に困難だったし、許可が取れても、入境後は公安警察に数時間おきに電話するよう指示されるなど、窮屈だった。そういう手続きを通じて知り合った警察幹部が裸足で市内をさまよっていた。幹部は「この状況を早く外部に伝えてくれ」と話す。顔は疲労しきっていた。飲みさしだが最後の1本だったペットボトル水を差し出すと、「助かる!」と言って一気に飲んだ。
また、水道が破壊され、井戸水も汚染されていたため、水が非常にきたなかった。インドネシアでは、貯め水を体にかけて入浴代わりとし、その水をトイレの排水や手洗いにも使う。この水は通常、すんだきれいな水だ。しかし、私が泊まった保養所では黄色くにごり、数a先も見えなかった。トイレの排水にだけ使い、手洗いにはペットボトルの水やウェットティシューを使った。
知事公邸浴室の水は少しましだったが、やはり濃く濁っていた。砂じんの舞う被災地で汗にまみれて取材していた私はがまんし切れずこの水で顔を洗った。すると、水が口に入ったのか1、2時間後に下痢をもよおした。
私は最近、宿泊先の民家の貯め水で体も洗うが、水には浮遊物がたくさん混じっている。体がかゆくなるのは気のせいだけではあるまい。
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