炎熱列島からの手紙〜ジャカルタ特派員報告【第5話】 まえ 初めに戻る つぎ

    混沌の被災地を取材して(中)


     
    ▲津波で流失した集落跡。
    (アチェ州南西海岸で2月1日)
     
     2004年12月27日にバンダアチェに入った私は翌月13日までジャカルタに戻らず、メダンを拠点にアチェ州への出入りを繰り返した。1月に入ると応援特派員や写真記者も交代で駆けつけ、同月中旬以降、取材陣はバンダアチェに借りた民家を拠点に取材を続けた。
     ただ、当初の食料事情、宿泊事情は厳しかった。当初1週間は水や食料の入手が難しかった。被災数日後からバンダアチェ市郊外で食堂や青果店の営業も少し見られたが、もともと交戦地域であり、夜間外出は危ない。さらに被災で一般治安も悪化していたため、夕食のため郊外に出ることはしなかった。
     このため、1日1食で過ごした日も3、4日間あった。メダンから持ち運んだ菓子やパンなどをかき込み、疲労を頼りに眠った。昼下がりに避難所で炊き出しのボランティアに取材した際、助手が「朝から何も食べていない」と話し、同情されてインスタント・ラーメンを振る舞われたこともある。津波後1カ月間で体重は3、4`減った。

     
    ▲アチェ州南西海岸の国軍詰所。
    この詰所前でガソリンを抜き取られた
    (2月上旬)

     被災直後、特に貴重だったのは飲料水だ。 メダンからアチェ入りするたびに、1人5g以上を運んだ。被災3日目、バンダアチェ市内で公安警察幹部に出会った。同州では、津波以前は外国人の入境(立ち入り)を厳しく制限していた。入境許可取得が非常に困難だったし、許可が取れても、入境後は公安警察に数時間おきに電話するよう指示されるなど、窮屈だった。そういう手続きを通じて知り合った警察幹部が裸足で市内をさまよっていた。幹部は「この状況を早く外部に伝えてくれ」と話す。顔は疲労しきっていた。飲みさしだが最後の1本だったペットボトル水を差し出すと、「助かる!」と言って一気に飲んだ。

     
    ▲湿地と化した南西海岸の水田あと。
    流木の山の下から痛んだ死体が次々に出てきた
    (大アチェ県ループン郡で2月3日)

     
     また、被災直後は、民家以外に知事公邸内でマスコミ向けに開放された体育館や企業保養所(といっても粗末)に泊まった。体育館は複数の欧米メディアが衛星電話などの機材や大量の飲食料を持ち込んでそれぞれ一画を占拠し、臨時取材センターを作っていた。2人で取材している私たちはトイレに行くにも互いが残って荷物を見張った。  真夜中、大きな余震があった。体感推量で震度3ぐらいだろうか。寝ていた100人近い人たちが我先にと出口に殺到し、ものすごい足音だった。
     また、水道が破壊され、井戸水も汚染されていたため、水が非常にきたなかった。インドネシアでは、貯め水を体にかけて入浴代わりとし、その水をトイレの排水や手洗いにも使う。この水は通常、すんだきれいな水だ。しかし、私が泊まった保養所では黄色くにごり、数a先も見えなかった。トイレの排水にだけ使い、手洗いにはペットボトルの水やウェットティシューを使った。

     知事公邸浴室の水は少しましだったが、やはり濃く濁っていた。砂じんの舞う被災地で汗にまみれて取材していた私はがまんし切れずこの水で顔を洗った。すると、水が口に入ったのか1、2時間後に下痢をもよおした。
     衛生面の悩みはその後も続いている。助手の1人は1月、腸チフスに感染し、3週間に渡って戦列を離れた。4月にニアス島の被災地を取材した応援特派員とカメラマンは蚊にさされ、そろってデング熱を発症した。私は2月以降も毎月、アチェを訪れているが、チフスの経口感染をさけるため使い捨てスプーンやフォークを持ち歩き、マラリアやデング熱対策で蚊取り線香、虫除けスプレーを常備している。遺体に近付く際に不可欠だったマスクは3月ごろからようやく使わずに済むようになった。

    私は最近、宿泊先の民家の貯め水で体も洗うが、水には浮遊物がたくさん混じっている。体がかゆくなるのは気のせいだけではあるまい。


    ▲海岸部に打ち上げられた石炭運搬船など2隻。
    (大アチェ県ロクンガ郡で2月)
     

    ▲同じ場所を上空から撮影。
    (自衛隊機から2月)



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    Last Update: Jun.15,2005