※2004年12月26日、スマトラ島(インドネシア)沖のインド洋で大地震があり、沿岸一帯を大津波が襲いました。死者・行方不明者が20万人以上にのぼるなど被害の詳細はマスコミが伝えてきました。ここでは3回に渡って取材体験記をお話しさせていただきます。 インド洋大津波の最大の被災地、インドネシア、アチェ州の州都バンダアチェ市はその日、人々が大災害の現実を受け止めきれないのか、空港も町も静まり返っていた。被災翌日の04年12月27日。空港には寝場所や援助を求めて詰め掛けた被災者が既に数百人いた。夕方になってたどり着いた市中心部は人影がまばらだった。 津波は26日朝、約200`におよぶアチェ州南西海岸と北端のバンダアチェ市を襲った。 27日朝、私とジャカルタの取材助手(女性、26歳)はメダンに着いた。「バンダアチェ空港は地震による損壊で閉鎖」との情報もあり、その先、どうやって被災地に行けるか検討がつかなかった。しかし、メダン到着後、同空港は使用可能と分かり、ガルーダ航空がメダンからバンダアチェへの臨時便を出した。この便にありつけた外国メディアは、日本の3社を含む数社だけだった。同便の直後にチャーター便でバンダアチェ入りした日本メディアもあった。
空港に家族を迎えに来た人の乗用車に乗せてもらえたのは夕刻だった。町には遺体が散乱しているという。恐れていた通りだ。十数分走ったところに大量の遺体が集められていた。ざっと500体は下らない。 乗用車の家族は被害のなかった地域で私たちを降ろし、「空港に戻る車が見つからなければ訪ねてきなさい」と高台にある住所を教えてくれた。付近にベチャと呼ばれるサイドカー付きオートバイが数台走っていた。1台をつかまえ、被災中心地へ向かう。日はほとんど暮れていた。
数分走ると、道路のあちこちに遺体が転がっていた。どの遺体も両腕を宙に突き出してマネキンのごとく硬直している。ヘッドライトに照らし出される遺体の一つ一つが強烈なインパクトで目に飛び込んできた。大通りでは、歩道の各所に十数体〜二十数体ずつの死体置き場が設けられていた。驚愕の光景を次々に目の当たりにし、「この状況を早く日本に伝えなければ!」と気だけがせいた。
この日、アチェに着いてから口にしたものはビスケットと少量のパンだけだ。被災地で食料が入手しにくいことは、95年の阪神大震災でよく知っていた。神戸市中央区の自宅で被災した私は当日、朝から翌日未明まで神戸市内を歩き回って取材した。開いていた店はコンビニ1軒のみ。それも、開店後20、30分で食料が完売し、「柿の種」だけを食料に未明まで歩き通すことになった。
男性と別れて市中心部に向かった。ベチャのガソリンがなくなりつつあった。実は支局に衛星電話を常備しておらず、通信手段がなかった。他社の衛星電話を借りて最小限の情報を東京に伝えたが、早くルポ原稿を届けなければならない。ガソリンも切れそうだし、いったんアチェを出ることに決めた。
ところが、空港の混雑が尋常ではなかった。メダンに脱出しようとする人々が券売所に長い列を作っていたのだ。一方で、発券カウンター内に自由に出入りしては、優先的に航空券と搭乗券を受け取っている空港職員らがいた。観察すると、この職員らは空港の警備に当たっている国軍兵士らから指示を受けていた。そして、一部の客が折りたたんだ紙幣と搭乗希望者リストを兵士らに渡し、航空券あっせんを依頼していた。
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