一 澱江の水涸るるとも 燃ゆるは吾等が血潮なる
あゝ六稜の星の下 意気に逸れる若人の
雄叫び高き勝鬨に 今日初陣の陣太鼓二 白雲ゆきて松風に 忍従のとき幾春秋
榮枯盛衰移りゆき いま荒鷲の翼もて
六甲山下錦城に 覇業を目ざす吾が選手(ラガー)三 困苦研鑚幾星霜 鍛へし健兒ここにあり
敵陣いかに固くとも 吾が精鋭のいくところ
六稜の大旗ひらめきて 吾が戦勝をしめすなり四 さらば進めよ吾が友よ 征けよ征け征け吾が選手(ラガー)
吾等二千の血潮もて 吾が六稜の意氣により
戦い屠れ敵軍を 進め六稜健男兒ふれ北野 ふれ北野 ふれー おー おー
演奏 楽譜(J) 楽譜(E) 1934(昭和9)年11月 岩尾一(5年生・48期)作詞の応援歌『澱江の水』が登場した。作者の言によれば、「一晩で作詞し山口高校の応援歌の節を借用して初めて昭和9年の天中戦から使ったものです」(『六稜通信』第3号。昭和47年3月)
この応援歌は現在も歌いつがれている。
「応援歌第二の誕生のいきさつ」
大岩重雄(60期)
昭和9年、応援団長であった柔道部の尾崎克幸氏(48期)と副団長の岩尾一氏(48期)が相談し、応援歌第一(『澱江春の』)の曲は軍歌で歌われ、当時どこの小学校の運動会でもこの曲が流されていたので、ひとつ陳腐でないものを作ろうではないかということになった。
曲は、岩尾氏が幼少の頃から父君が常に口ずさんでいて、自身もよく歌っていた山口高校の歌で『ラインの水』という曲を借りることにし、歌詞は岩尾氏が作詞した。10月に十三駅前の印刷屋で作り、学校に持参した。5年生が待機して全校生徒を集め、朝礼で口移しで覚えさせた。教頭の友田力先生も一緒に覚えてくださったという。こうした努力の甲斐あって、昭和9年11月23日の天王寺中学とのラグビー定期戦では、20対10のスコアで勝つことができた。ただ、翌々日の25日に天理中学に14対13の僅差で負けて全国大会に進めなかったのが残念であった。
※六稜ラガークラブ東京支部総会(1994.10.2)での岩尾一氏の談より
「北野のうた」より
野口藤三郎(53期)第一の『澱江春の』も第二の『澱江の水』も共に素晴らしい詩だ。昔も今も日本を代表する中学高校である北野の「天下の六稜健児」の教養の高さに驚嘆するのは私だけではあるまい。現代青年の国語の力で果たしてこの様な詩が作れるかどうか?
『澱江春の』の華やかな曲調(四分音符=114)に比べてこの『澱江の水』は重厚荘重に歌うこと(四分音符=78)が必要である。両脚をしっかりふん張って立ち、キャップを右手に握り締めて上下に振りながら「でんこォの みずゥ かるるゥともォ…!」と蛮声を張りあげる「北中応援団」の光景を思い浮かべて欲しい。
※記念CDの歌詞の中で第一番第3節の「あゝ 六稜の星の下」を「おゝ 六稜の星の下」と歌っているのも戴けない。