多 梅稚 (1869〜1920、明25.8〜31.9在任)
のちに東京音楽学校教授、『鉄道唱歌』(「汽笛一声新橋を…」)の作曲者。土井晩翠 (1871〜1952)
近代日本を代表する詩人。『天地有情』『暁鐘』など多くの詩集がある。彼が作詞し、瀧廉太郎が作曲した『荒城の月』は特に有名である。1950年に文化勲章を受章。※姓の読みは「つちい」であったが、昭和7(1932)年頃「どい」と改音。
岡野貞一 (1878〜1941)
鳥取県出身。1899年、東京音楽学校を卒業後、同校の助教授を経て1923年に教授となる。また、文部省唱歌編纂委員となり次々と唱歌を作曲した。「兎追いしかの山…」で始まる『故郷』や、「菜の花畠に入日薄れ…」で始まる『朧月夜』のほか、『日の丸の旗』『春が来た』『春の小川』『紅葉』などの有名な唱歌は、彼によって作曲されたものである。文部省唱歌は制作者の氏名が伏せられることが多かったため、岡野貞一の名が一般に知られていないのは残念であるが、優れた作曲家であった。
「岡野貞一を知っていますか」
『六稜会報』No.29, p.13 (1995)
なお、本文中に『岡野は神奈川大、旧制長崎中学校、函館中部高校などの旧校歌を作曲したが、いまも「現役」で歌われているのは、本校のみであるようだ。』とあるが、東京盲学校(現筑波大学附属盲学校)の校歌[明治43年11月18日制定]も氏の作曲(作詞は尾上八郎(紫舟)氏)であり、現在も入学式・卒業式で歌い継がれているというご指摘を同校に勤務される間々田和彦氏より頂いた(2001.11.30)。
佐々木信綱
歌人・国文学者。唱歌 『夏は来ぬ』、軍歌『水師営の会見』の作詞者。文化勲章受賞。杉江 秀 13期
多梅稚に学んだ生徒の一人。東京音楽学校に入り、帰阪後市岡高女(現港高)に長く勤務し、『明治節の歌』(「亜細亜の東 日出づるところ…」)を作曲する。大中寅二 (1896〜1982) 28期
一般には歌曲『椰子の實』(「名も知らぬ 遠き島より…」)で有名だが、牧師で東京霊南坂教会のオルガニスト、『オルガン聖助集』『礼拝用オルガン小曲集』などの作品を残した。橋本國彦 (1904〜1949) 36期
作曲家、指揮者。東京音楽学校本科でヴァイオリンを、研究科で作曲を学び、同校の講師、助教授を経て作曲科教授となる。1934年、ヨーロッパに留学し、クルシェネク、シェーンベルクに師事。1947年、東京音楽学校を退職する。初期には演奏活動もしたが、後には作曲活動を主とした。代表作に、カンタータ『皇太子御誕生奉祝歌』(1934)、交響曲ニ調(1940)、ヴァイオリン独奏曲(1942)などがある。また、歌曲には優れたものが多く、深尾須磨子作詩の『黴』『斑猫』や、西条八十作詩の『お菓子と娘』はよく知られている。
上野で同級の徳山たまき、1級下の四家文子が、橋本自身や2級下の井口基成の伴奏で、無名のころ彼の曲をさかんに歌った。「すばらしい頭脳の持ち主であり、紙一重といわれる位の過敏さを持っていたので作品は多種多様のタイプになっている」と上野で1級下の四家文子は指摘する。(『天才橋本國彦を偲んで』)また「時折り作品の中に関西弁のアクセントが顔を出す」が、「日本歌曲の発展につくした橋本國彦の役割は、山田耕筰、信時潔等の古典派と、戦後台頭した若い作曲家たちとの間の架け橋的なものといえよう」と四家は橋本を位置づけている。
長谷川良夫 (1907〜1981) 40期
現憲法施行記念式典時のカンタータ『偉いなる朝』の作曲者で東京芸大楽理科主任教授となった。『作曲法教程』『大和声学教程』などの著書、『第1弦楽四重奏曲』歌曲『万葉集』などの作品がある。本校創立100周年記念祝歌の編曲者でもある。野口藤三郎 (1921〜) 53期
1943年学徒出陣で海軍対潜学校に入校。特殊潜航艇・艇長で1945年復員。戦後、高校の教師を経て、1947年音楽界へ。1952年大編成のリズム・エアーズおよびロイヤルポップスを率いて各地で活躍した。その間、1958年故・鈴木清一郎先生(カレヤン)の謝恩パーティに奉仕出演。つづいて北野創立80周年、100周年記念行事には、リズム・エアーズ オーケストラを率いて式典に錦上花を添えた。「北野のうた雑感」(『創立120周年記念音楽会プログラム』より)
「ある音楽家の生涯」(われら六稜人【第27回】)