「唄は世につれ、世は唄につれ」といわれる。その通りで、北野中学で歌われた唄もその例に洩れない。殊に正規の音楽教育のなかった時代なので、「唄」は上級生から下級生へ、先輩から後輩へと歌い継がれるもので、時日の経過とともに変化するのも無理はない。
昭和九年、わたしは北中入学と同時に音楽部に入り、卒業まで在部した。年齢でいえば十一歳から十六蔵まで、人の一生のうちで最も多感・純粋な時代である。「今は昔」だが当時は《音楽》が漸く中学校の正課になったときで、授業時間は週一回一時間、それも一年生だけで終わりである。西欧諸国の音楽教育とは比較にならない。
音楽の先生は、かの有名な森田浦之丈先生(仇名はオーヤン)であった。先生が有名だったのは、音楽の先生としてではなく《武道》である。なにしろオーヤンは剣道七段=教士の肩書きを持つ「北辰一刀流」の剣士として無敵の使い手だった。
教科書は『中等・音楽教本』(帝国書院刊)という本で、習った曲は《新しき帽子》と《冬》の二曲だけ。− 剣道の先生が、なぜ音楽を?− という疑問が起こるだろうが、それは森田先生が《日本体操音楽学校》のご出身で音楽の素養がおありだったから。この学校は明治時代の学制による専門学校で(旧制高等学校と同格、またはそれ以上)、そのステータスは現在の駅弁大学(?)の比ではないかも知れない。夏目漱石の小説『坊っちゃん』が卒業した(物理学校)も同様である。音楽部員で、とりわけ熱心な生徒ということで、当然のこととして私はオーヤンに可愛がられた。音楽科目の点数も、一学期97点、二学期99点、学年平均98点という世にも稀な点数を貰って、びっくり仰天したのも良き思い出である。その森田浦之丈先生が私を呼んで「あとに伝えよ」と訓されたのが、別記の二、三のコメントであった。
森田先生は「剣の世界」の名士であるので公務が多く、そうでなくとも数少ない音楽の授業は、よく《宅習》になった。(この《宅習》という制度もまことに楽しい制度であったが、今でもあるのか知らん?)と、いうわけで、北中時代に覚え、かつ、歌った応援歌やその他の唄はすべてスポーツの応援団のチアリーダーから教わったもので、間違って伝わるのも無理はない。
北野の校風は《進学》、それもハイスクール(旧制高校)指向だったから、当時の愛唱歌は校歌、応援歌の他に旧制高等学校の唄が多かった。
第一高等学校・東寮寮歌の 『嗚呼玉杯に花うけて』 をはじめ、 第四高等学校・南下軍の歌 『ただに血を盛る』 や 北海道大学恵迪寮寮歌の 『都ぞ弥生』 はよく歌われた。就中、 第三高等学校・逍遥歌 『紅萌ゆる丘の花』 同じく三高の記念祭歌 『桜の若葉吹く風も』 琵琶湖周航の歌 『われは湖の子さすらいの』 は、殆どの生徒が好んで歌い、 今でも忘れられていない唄だ。 また、明治の書生気質というか、 大正ロマンの名残からか、俗謡であるが、 『デカンショ節』 『ノーエ節』 や、当時の歌曲の 『真白き富士の根』 『青葉の笛』 『ステンカラージン』 『月の砂漠』 『菩堤樹』(ドイツ語でうたう) 『野ばら』(ドイツ語でうたう) などの曲は忘れられぬ唄である。不思議なことに、流行歌(今の演歌)は歌わなかった。北野のアカデミズムの所為だろうか。「男女七歳ニシテ席ヲ同ジウセズ」という儒教教育の厳しい躾が男女関係を律する時代ではあったが、当時のみんながこっそり好んで歌った『大阪の女学校・数え歌』は、森繋久彌先輩ならぬ《我が心にかそかに宿る思い出の北野中学》だろう。一ツとせ ひとり娘の可愛さに 泣いて通わす 大手前 二ツとせ ふみを書く手は白菊の その名も清き 清水谷 五ツとせ 粋なバンドをちょいとしめて 夕陽ヶ丘に 花が咲くもうひとつ、何といっても北野の最高の傑作は、恩師の先生がたの『数え歌』だ。一ツとせ 人に知られた北中の 名物教師のたな卸しで始まるこの唄は、校長先生の《オットセイ》からはじまって、五十余名の先生方がオール・ニックネームで出てくる楽しいものだったが、これは割愛する。