校舎の改築問題はもう15年前ぐらいから甲論乙駁ありました。松下校長(S60〜63年)、藤枝校長(S63〜H3年)、足立校長(H3〜6年)と…歴代校長はみな「校舎改築」について府の指示を受けて来られていたようです。
ところが、同窓会の主流は改築に猛反対でした。昭和の名建築と謳われ、日本建築学会が選ぶ「近代名建築」2,000選のひとつにも挙げられている校舎を「なぜ、取り壊すのか」という意見がかなり強かった。
さきごろ名古屋の旭ケ丘高校(旧愛知一中)の校舎改築問題で同じような意見が飛び交っていますが、北野ではほぼ10年前にこの論議を通過していたのです。
それより一寸さかのぼって岸知事の時代。
「もはや戦後ではない」をスローガンに、戦争の痕跡を町中からできる限り無くしていこう…という方針を府は持っていました。長柄橋の橋脚の弾痕とか、九条の遊里で数百人が焼死した痕跡など…実際にそれで取り除かれた史実はたくさんあります。
当時、私は同窓会の広報委員長を務めていましたが、泉悌二校長(S49〜58年)の時代に「北野の西壁弾痕も取り除かれる…」という府の計画をお聞きし、急遽、同期の友人(=学校防衛隊の残党)10名ばかりに招集をかけて集まってもらった。秋本守英、北村日出夫、佐藤功、曽我栄弥造、広瀬繁雄、田中睦君らです。一緒に現場を見て、校長室で校長の話を聞き、私らとしての結論を出した。
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この弾痕はあるがままに残して、生徒たちに歴史の現物をあるがままに見せよう。歴史はそのまま残す。教師が教壇の上から教科書で歴史を語るだけではなくて、歴史のあるがままを生徒に見せて、そして自由に考えさせるのが良いのではないか……
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大阪府の教育長のところにも直談判に行きました。黒田知事(41期)時代の教育長であった鎌田庄蔵先輩(43期)にも同席していただいてね。教育長は一通り話を聞くと「わかりました。御要望のように北野の弾痕は残しましょう。今、調査員が北野へ向かっております」と。いや、役所というのは早いときには早いもんだナ(笑)。驚きましたよ。
※結局、この弾痕壁は今度の改築でも「メモリアルウォール」として残されることになりました。ネーミングがもうひとつ…という声もあるので、仮称ということにしていますが。
その後、時が経つにつれて、同窓生からも「便所が昔と同じ悪臭を発しておる」「校舎がなんぼなんでも古うなりすぎてはいないか」そういう声があがるようになりました。タイルは落ちてくる、天井は剥がれてくる…先生方からも不満の声が強い。教育面でも、黒板のあり方や実験の設備など…要求が絶えません。果して…このまま旧態依然の校舎であることがいいのだろうか「新しい酒は新しい革袋に盛らなければいけないのではないか」そういう気運が同窓会の中にも台頭してきたのです。
そして足立校長の時代に…ついに大阪府から新校舎の設計図面が出てきた。この段階で校内の校務委員会からも同時に竹山案というのが出てきて「これこそ北野らしい新しい革袋だ。何とかこの竹山案を反映して欲しい」そういう展開になったそうです。六稜同窓会としても、常任理事会でこの案について討議されましたが、以上の経緯を納得された諸氏の判断は全会一致の「賛成」でした。
それから、稲畑会長はじめ有志で中川知事に陳情に行きました。知事は肯きながら「北野はいいですねえ。百何十年もの歴史があって。何十年もの間、校舎も校名も変わることなく維持して来られて、うらやましい。私の母校、京都二中は戦後なくなってしまいました…」と感慨ひとしおの様子でした。
教育委員会の若干の人から「知事は古いもん好きで困ります」という愚痴も出ましたが(笑)、結局、大阪府としては、半ばこの「校内の意見」を最大限尊重する形で、竹山原案に基づく新プランを練りに練り上げたそうです。
校舎改築前史年表