恩師を訪ねて【第13回】

    北野に着任して

    西川昭子先生



      昭和33年 瑞光中学へは24で行ったんですが、瑞光に行ってるときに、近くのお宅のお母さんにピアノを娘に教えてくれって頼まれたから、瑞光の校長にちゃんと相談して教えてたんです。そこのお嬢さんは北野に行ってて、その子が「先生、北野に音楽の先生がいなくってみんな困ってるんですよ。先生みたいな人が来てくれはったらうれしい」って言うてくれたんが発端なんです。木川田誠先生がおやめになって後任が空いてたんです。芸大出た男の先生が来ることになってたんだそうですけれど、来られなかったのだそうです。たまたま、そのときの校長の竹内鐡二先生の娘さんが私と堀川の音楽コースで上級生下級生の関係だったんです。しかも竹内先生は昔鴨沂高校の校長さんをしてらしたんですが、その時代にうちの父がそこのPTAのお世話をよくしてたもんだから、よく知ってたんですよ。もうひとつ良かったんは、瑞光中学のときに大阪市全体の音楽の研究授業をささされたことがあって、指導主事の山中先生って方がものすごく誉めてくれはってね。で、その方が一所懸命後ろ楯になって下さって。それから瑞光中学の松永っていう先生にもお世話になってね。

      37年7月2日に来たんですが、音楽室もなくって ― 木川田先生の頃は1階の今の生物室が音楽室だったんですよ ― 講堂で『歌の翼に』を一番初めに選んだんを覚えています。木川田先生は2時間続きの授業の2時間目を鑑賞の時間にしてはったんです。そのときにはレコード聴きながら、お弁当食べてもいい、他の勉強してもいいんですって。芸術家タイプの木川田先生のあとに、私みたいなコチコチなのが来たから「いじめたれ」って感じだったんでしょうねぇ。私がいろんなことを解説してみたり七面倒くさいこと言うもんやから、中学から来たし、女やし、いっぺん困らせてやろうかという感じだったんでしょうね、いろんないたずら受けました。細かいのは知りませんよ。でも私、「こんちくしょう」って言ったらすーっとするのです。それはね、口に出してでも言うんですよ。「こんちくしょう!」ってね。

      一つはヘビ事件ってのがあるんですがね。グランドピアノの中にヘビ入れといたらしいです。私が気づかなかったから、あれは生徒にとったら面白くなかったん違うかなぁ。あの西川やから、きっと怒って真っ赤になるで〜って期待してたんでしょうけど。私思うに、正義感のある生徒がチョイとつまみだしたん違う?それもね、因縁話があるのよ。その男の子の娘さんが北野に来てね、その娘さんがちょっと問題起こして、担任がそのことで自宅を訪問したときに言いはったのよ、「僕がヘビ入れたんです」と。言わないでもいいのにね〜。その期の同窓会は何とかかんとか理由つけて、絶対行くまいぞってしてたんですけど、こないだ行ったらその卒業生に謝られましたよ。「わるかったね、そのとき私びっくりせんと。ヘビを見たら私、びっくりしたげたんやけど …」って言いましたよ。誰からか伝わって竹内校長がその話を知られて、そのことで職員会議があったのです。でも、自分がしっかりしてなかったからそうなったと思い、恥ずかしかったのです。


      昭和38年 1年6組 北野はすばらしい先生ばっかりでしたね。最初に教務に配属されて、石田千代之輔さんの隣の席に座らされて、職員会議の記録をせんといかんのです。それの記録を作んのがむつかしくてねぇ。その日は下書きで、あくる日一日かかって清書して出してました。あるとき、藤尾正直先生が発言されて「実はそのことは何年前の何時の職員会議のときに言っております。いっぺん調べてみて下さい」と。そしたら、その通りなんですよ。それで、すごい人いはるなぁと。そうかと思うと会議の間、椅子の上であぐらかいてはって、で、何かの件で「…先生どう思いはりますか」て言うたら「ぼくは聞いてなかったです」。そんな先生もいてはりました。村川行弘先生はね、時間が遅くなったらね「もう、うどん頼みましょか」言うてね。

      石田千代之輔さんなんかほんと礼儀正しい方だなあと思いました。生徒に職員室でしゃべっておられるのに「そうですねぇ。わかりましたか」言うてね。そのとき成績一覧表の記述の仕方を変えようということがあって、その案を教務で練らんといかんのですね。私なんか全然タッチしてないんですけど、石田千代之輔先生がほとんど全部一人でされて ― 今もそれ使ってると思うんですよ ― それでできあがった原稿を私のとこへ持ってきて「西川先生、これでよろしいですか」言われて、もう私、穴があったら入りたいと思いました。何にも批評することもできないんですけどね、それでもそういう風にきっちり礼を尽くしてくれはる。その頃の北野の先生は専門以外にきっちりしたものを一つもってらした。川副昭人先生は『蝶類』で有名でしょう。柏尾洋介先生は必修クラブがあったとき『ドイツ語』を教えてはりました。

      いややったんはPTAの主任になれ言われたとき、やめますと言いましてねぇ。何がいやか言うたらね、入学式すんだ後、校長先生が挨拶されるでしょう、そしてその次に同窓会の会長がお祝い言うでしょう。後は父兄だけ残して、生徒、中へ入った後ね、PTAの主任が挨拶するんですよ。あれがいややったんです。姪がまだ小さい頃、家へよう来てたんすが「おばちゃん、上へあがって『挨拶です』言うたらええやんか」言うたこと、今でも覚えています。

      昭和47年春 1年10組 女の先生は当時少なくてね、数学の乗岡フミ先生、家庭科の高田貞子先生、西川(伏谷)ノブ子先生、体育の大前寿先生。女の先生はそんなに多くないもんだから、新しく女の先生が来られると、家庭科の調理室のところで家庭科の先生がお料理して下さってね、歓迎会して下さるんです。そのとき大前先生が高田先生をさして「この方が『おおあねえさま』ですよ」と言われたことが今でもよく覚えているんですよ。ほかに体育の石橋尚美先生 ― 山根為雄先生の奥さんになられた方。中学は女の先生が多いんで私なんかいじめられるまとだったんです、古い先生に。そやから北野へ行ったら、なんとまあ晴れ晴れしてねぇ、担任はないし、いじめもないし、だからいまだに高田先生、ノブ子先生ともお付き合いさせてもらってます。

      高田先生が私にね「西川さん、あなたたち若いんやから、もうちょっと赤いもん着てきたらいいのよ。ここの学校はうす暗いので明るいものが着にくいのかもしれないけれど …」と言われたんですよ。それから、行ってすぐぐらいのときに瑞光に荷物を取りに帰るときに、これから瑞光中学へ参りますということを教務主任の先生にちゃんと言って行ったと思うんです。そしたらそうじゃぁなくって、国語の川井先生に言うて行ったから、放課後、私がいないいうので、高田先生がおトイレから全部開けて捜して下さったんですよ。それを聞いたとき高田先生って何てやさしい方なんだろうとうれしかったです。

      私は北野ではとても大きくかわいがってもらったと思うんです。瑞光やったら授業でも全然困ることはなかったんですが … だけどいまさら何を泣き言いうて帰らりょかと、しんどいときがありました。そんな頃、3階の廊下を歩いていたときに、藤尾先生が「西川さん、大丈夫か」と、それだけ言うてくれはったんです …「しんどいのか」じゃぁなくって。私はあれで一杯しんどいこと言うてベチャベチャとやってたらくずれてたかも知れないと思います。私が退職し、藤尾先生もおやめになってからですが、藤尾先生に「あのときはうれしかったですよ」と言えました。


      聞き手●今城文雄(78期)、岸田知子(78期)、石倉秀敏(84期)、佐伯新和(98期)、
          谷 卓司(98期)、磯辺 香(107期)、岸田逸平(108期)
      収 録●Dec.19,1998
         (京都市左京区岡崎のお宅にて)


    Update : Mar.23,1999