西川昭子先生
姉が5つ上にいて、小学校3年からバイオリンをやらされていて、ギィーコと弾いていたらとたんに怒られたりして泣いているから絶対にバイオリンはするまいと思てね。そしたら母がピアノ習おか言うたかどうか覚えてないんですけど、気がついたらもう金澤孝次郎先生というすごい先生、そこにね、小学校2年生から行かされたんですよ。その前、もう4つくらいから楽譜を読むことだけは母が遊びの中で勉強さしてくれてね。そのときはそんなにいやではなかって「ドーちゃん、レーちゃん、ミーちゃん」言えばねえ、お菓子の一つや二つもらえるという感じでね。それが今度金澤先生のところについたら、別につらいことはないんだけど、練習しようとすると人と遊べない。だからそんなのがイヤでねえ、なんでせんならんの … と。ピアノ買ってもらったときだけはうれしかったですけどね。
そう、母がやりたかったんですよ、音楽は、結局。母は今の東京女子体育大学の前身に大正12年に尾道の県女から行って卒業してるんですよね。それもね、あそこは丁度デンマーク体操というのを藤村トヨ(※1)という先生が持って帰ってこられて、もう洒落たことを教育の中に入れられててね。授業の一環として帝劇でオペラを聴いてんですって。今の芸大、昔の上野の音楽学校の土曜コンサート、今でもやってますけれど、無料で生徒たちでやって、それ聴いていいなあと思って。その前に彼女の女学校の担任の先生が音楽の先生だったということもあって、好きで好きでたまらなかったんでしょう。それで体操と音楽の免許をもっていて明浄女学校(現明浄高等学校)というとこで7年ほど勤めたんです。
今の鴨沂高校の前身の京都府立第一高等女学校に入りました。昭和17年に入って22年に5年卒業。あの頃の教育課程てどないなってたんか、はじめは5年制で入ったのだけれど、3年で出てもよい、4年でもよい、5年でもよいという、いい加減なことだったの。よくできる人は女子医専(現関西医科大学)、それと奈良の女高師(現奈良女子大学)へ行きましたね。私はそんな気持ちはさらさらなくってちょっと宝塚が好きで一所懸命通たりして、ピアノもチョロチョロ弾いていたりしていましたが、あんまりおおぴっらに弾くと非国民と言われるでしょ、その頃やからねぇ。
一番好きだったのはやっぱり歴史だったです。それと地理。府一の高等科へ行っているときに英語も好きになって。というのは、終戦後、旅順の工科大学だとか満州とかのすばらしい先生方が帰国され府一の高等科に来はったんです、たくさん。そんな先生は私らの英語の程度も知らんと、難しいことばっかりやらされて。ですから今でも覚えてんの、George Robert Gissing の "Miss Rodney's Leisure" とか "Humplebee" なんか。そんなのをね、1週間前にクラス代表が先生から本を借りて板書するんですよ、黒板に。それをみんなが写すの。それをやみくもに訳していくわけ。だから文法も何もあったもんじゃぁ。それでも好きになりましたねぇ。だけど、女学校時代いうたら、ほんとにねぇ、体操もできなくって、いっぺん体操の先生が「そこの何番目、上の式台へ上がってやってみぃ」言いはったから、これは誉めてもらえるのか思て行ったら、悪い見本でやらされたんですよ。そして胃腸が弱かった関係か脳貧血でよく倒れてねぇ。ほんとに取り柄もない生徒だったです。
女学校の5年生を出てどこというあてもないから、高等科という2年課程の専攻科に行ったのですが、その2年生のときに、堀川に公立として日本で一番初めての高等学校の音楽コース(※2)ができるってことでそちらに行ったんです。堀川は昭和23年10月に開校したんです。それもね恥ずかしい話なんですが、私はどうしても行きたいということでもなかったんです。母は、女は結婚するまでに人よりもちょっとできることをもっておいて、それも家でできるキレイな仕事でないといけないと言うてました。男だったら生活に困ったらヨイトマケ(力仕事)も出来るけれど、女はそうは行かないでしょ。そして、あんたせっかくやったんやからもう一回やってみないか言われて。でもねぇ、私にしてみたら2年も下がるのいうのは、やっぱりちょっとね、落第じゃないっていうても。まあ、でも入れて頂いたんですよ。で、堀川ではね、私が一番年が上だもんだからと思って、一所懸命お掃除をしたり、ずいぶんええかっこして、お姉さんぶってたんです。
昭和26年頃の東京というたら、上野公園にまだ葦簾張りの部落がずーっとあってね。夜、上野公園入ったらいけませんという時代でしょう。私とこ東京に親戚は一軒もないから、小学校の同級生が東大の法科へ行ってたんで、その子のお母さんにうちの母が頼んで下宿を世話してもらったんです。お布団も全部送って。東京に行くのに、ハイヒールがかっこういいよ言うて買ってもらったんです。それにその頃出たとっても透明感のあるデュポンのナイロンの靴下も。そしたら東京へ着いたらもうそれがビリーっといってるしね。そして下宿行くまでにその靴が履いてられないんです、痛くって。西荻窪の駅前でつっかけ下駄買って、ハイヒールをひっさげて初めてのおうちへお世話になりに行ったんですよ。
結局、私、4次テストで落ちましてね。4次テストは何かいうたら面接なんです。芸大の面接いうたら、楽歴、何先生に習ってましたかいうてね。いや、ほんというたら誰にコネクションあるかいうことなんかいかんことでしょう。そやのにそれ聞かれたけれど、私が習ってた先生は、京都だったら、ピアノは梅田志づ先生で、声楽は上村けい先生だったから、そのお名前を言うたら「京都から来る人はたいてい梅田先生と上村先生ですね」と言われたことを覚えてます。それなのにすべりましてね。悲しかったけれど、そんなにものすごく悲しいとは思わなかったです。そのとき受験番号が102番だったんですが、103番が現在ピアノ伴奏で有名な小林道夫さん、彼が後ろだったんです。彼とは後で東京へ行ってからの聴音とか理論の先生が一緒でね、可愛いぼっちゃんやなぁ思て、一緒にやったん覚えてます。
その後3年生になるときに、また福本教授が「西川さん、内地留学という形だけれど受けてみないか、芸大へ」と言ってくれはったんです。だから福本先生はよほど私が合わない学校へ来たんだ、かわいそうだとか思ってて下さったんですね。それでまた行くことになったんです。今度はピアノで行ったんです。それで卒業証書としては京都学芸大学だけど、修了証書は東京芸大なんです。そして丁度いいことに姉がジャズのピアニストと恋愛結婚してまして、最初は姉の下宿しているところに下宿させてもらったんです。そしたらまた丁度いいことに、先生の内地留学いうことで学芸大学の声楽の佐藤清先生が芸大へ来られて、とても心強かったというか、佐藤先生の伴奏をさせてもらったり、下宿先でパーティーみたいなことさせて頂いたりしてねぇ。そのかわり、その2年間はすごい頑張りましたねぇ。というのは家にピアノがないでしょ。学校のピアノでしか練習が出来ないのです。レッスン室にいたら、素晴らしいピアノが聞こてくるし、素晴らしい声が聞こえてくるしね。だけど試験前になるとおんなじような曲が聞こえて来るというのはすごいことプレッシャーですよ。いやというほど劣等感も味わいましたねぇ。
だけど素晴らしい先生がたくさんおられて、渡邉曉雄先生もアメリカから帰ってこられて、指揮を教えて下さった初めての学年が私たち。それから音楽史も向こうで勉強されて帰ってこられた服部先生に習うことができてね。ほんとに何時間あっても足らないという感じ。私は6人兄弟だから6分の1しかお金使ったらいけないのに、絶対6分の1よりたくさん使ってる思てね。だから文化祭の頃なんかも自分で探してアルバイトもしましたね … たまたまこないだ、東京のイタリア文化会館へ行ったとき、靖国神社の横を通りましてね、昔向かい側に学徒援護会というのがあって、アルバイトをお世話してもらっていたのです。あぁなつかしいなぁと思て。東京に行ってからわりかた元気になったりして、『可愛い子には旅をさせよ』という言葉というのは私には当てはまったと思いますね。
スラって言ったことは、親ってほんとに気にしますから気ぃ付けないけませんね。父が亡くなって母と二人のときに「私は一人暮らしが好きなんだ」ということを言ったんですよ。そしたら母は気にしてね、姉に電話をかけ、「アコちゃんいうたら、こな言うてるけどね、私が早う死んだらええと思てんのかしら」ってこんなこと聞くんですよ。う〜ん、だから私は言ったらいかんことをたくさん言うてきてね。だから生徒にも言うたらいかんことも言うてきてると思うんです。それなのにね、卒業してからみんなにお世話になってねぇ。ほんとにありがたいことです。だから私がかかってるお医者さんいうたら、みな北野と関係のある人ばっかりなんです。
※1 | 藤村女子中学・高等学校の創立者 |
※2 | 京都市立堀川高等学校音楽課程・現京都市立音楽高等学校 |