西川昭子先生
「そのー健児 … レミーレミソーファ」のところ、ここが二つに分かれている一番大きなとこです。それまで長いこと「そのーお けんーじ」とンで上がっているように歌っていたみたいです。だけど「そのーぉぉ けんじ」の方が、音楽的に言うてもケンと言う言葉はつまる音ですから、正しいんですよ。一番奇異に感じたんはここだったですね。(※1) それと、2番のところで「年」を入れてるでしょ。昔はここに実際の年を入れてたんで、75年やったら「シチジューゴネン」とかややこしいことがあったわけですよ。それを「七十余年」という風にしようと考えたんは、実は私なんです。そしたら大分長いこと行けるでしょう。2000年になったら知りませんよ。また、原本はト長調なんですが、生徒たちが歌うときはヘ長調にしたのも私なんです。男女大勢で斉唱するときは高い上の二点ホがそろわないのです。上の二点ニまでだったら … だからちょっと変えたんですよ。原本がないんで、伴奏、困ってねぇ。木川田先生がチョコッと書いて下さってたから、それを参考にして作ったんですよ。
北野へ来て10年位してから芸大にいっぺん原本を探しに行ったことがあったんです、なかったんですよ … 普通、図書館にあると思うでしょう。それが私がやめる少し前にね、作曲の岡野貞一さんの息子さんがまだ生きておられて「原本が芸大にあります」と教えて下さり行ってみたところ、なんと教務にあったんです。それをもって帰ったんですよ。
私は今からやったら多分音楽のいい先生になれたと思うけど、あの頃はちょっと理屈をいうような教科の方が私には向いてたんじゃぁないかなぁ。私が理想としてた音楽の先生というのは、パッと出てきたらふわ〜っと音楽が聞こえてくるような人、そういうのが理想だったのです。私は、だめだったなぁ――。
ですけれど北野に行く前から歌うことが好きになってね、木村四郎先生のところへまた習いに行ったんですよ。それはなぜかいうと朝日コーラスへ入ったがために、木村先生が指導に来ておられて、この先生なら歌をもう一回習えると、それで好きになったんです。だから音楽、好きになったのは手ほどきして下さった上村けい先生じゃなくて、木村四郎先生なんです。そして発声も東京から2ヶ月に1回位教えに来られる先生について一からやったんです。そのレッスンが西中島のマンションだったので北野の自分のあき時間にチョコッと習いにいって、2時間後、知らん顔して授業してたんですよ。そういうこともできる学校だったです、北野は。
だけどね声って悪くてもね、発声よかったらちゃんと出るんです。それと音痴っていうのは絶対って言っていいほど無いです!自分の不得意な音域ってのがあるから、それをうまく教えてやらないと、また習わないと。私、北野でも瑞光でもずいぶん長いこと教えたけど、音痴いうのは一人しかいませんでした。女の子でしたよ。
歌ってたから今健康なのかもしれませんね。腹式呼吸で。私のお腹をさわってみなさいってさわらせたし、ね、さわったでしょう。あれはいいのよ。でもあの頃恥ずかったんよ、ほんとは。長坂好子っていう芸大の先生が堀川に出張で教えにこられたときは、こんな航空母艦みたいな体、それをね、音楽コースの生徒全部にさわらせはるの。何人さわってもまださわれるって感じ。それで「うわーっ」とこうなるわけ。母に長坂先生って言うたら「母さんも習たんよ。細い先生でしょう」って。「母さん何言うてんの、もう航空母艦みたいな先生」、「ほっそりした先生やったのよぉ」。
ドイツ語とイタリア語の歌詞とそのきっちりとした訳をつけたノートが今でも5冊、6冊とあります。それをやったからこそ、今外国旅行できるんですよ。芸大のときはイタリア語もドイツ語も1年だけで、しかも器楽のもんは一つで良かったんです。しかし語学が好きだったもんで … イタリア語は摩寿意先生が教えて下さっていたんですが、貧乏で『イタリア語四週間』という本が買えなかったんです。丁度その頃姉たちは関西に帰り、友達3人で6畳ひとまを借りていたときだったので、そのうちの一人がイタリア語の本を持っているのに余り勉強しないのです。そうそうその頃社交ダンスがはやり、彼女がダンスに行っている間によくその本を借りて勉強したのです。それで初めてお給料頂いたとき一番に『イタリア語四週間』買いました。
外国へ行って、つくづく音楽やっていて良かったと思います。外国に行くのは性に合って、精神生活にとって良いのです、私には。それとちょっとクリエイティヴにならないといけないでしょ。勉強しないといけないし。それと歴史が好きだからです。北野にいたときはいつも柏尾先生に「今度こういうとこに行きたいんですが、どこを見てきたらよろしいか」と聞いていたんですよ。今度で25回目、一人旅も15回目。そらぁーね、初めて一人旅するときの用意というのはすごかったですね。あれで老眼が進みましたね。1年以上計画にかけましたから。でもすごくそれが良かったんですね。
今はもう、ほんとに私ほど幸福なもんないと思います、ある意味で。でも、兄弟のいろんな悩みは全部私とこ来るので。そのしんどいのがあったから、こないだ北イタリアへ自然だけを楽しみに行ったんです。でもイタリアに着いて3日ほどたったたらもういやなことは忘れてしまい、好きなアリアやカンツォーネばっかり歌って歩いてました。それでこないだはあんまりにも音楽がなかったのがさびしかったので、今度は2月の9日から3月の2日まで22日間、イタリアとオーストリアに行こうと思うんです。まずウィーンで『トスカ』など4曲ほどオペラを見、1週間後、ミラノへ飛んで『運命の力』を見るつもりです。そしてベルガモのドニゼッティ劇場でオペラに出会えればいいなぁーと思っています。それからインスブルックから西南のノイシュティフトへ入り写真を撮り、ウィーンから乗り継いで関空へ帰ろうと思ってるんです。姉に電話したら「よかったねぇ、あんた夢みたいでしょう」って言うから「そう、夢みたい」言うてね。これも一番に健康やから。行くことが健康を呼ぶし、いい人たちにも出会えるし、大好きなオペラも楽しめるのですから。
※1 | 森田浦之丈先生も「われの龜鑑」(4番)の歌い方について一説を述べられていた。 参照:「北野の歌より」野口藤三郎(53期) |
※2 | フロトーの歌劇『マルタ』の中のアリア『麗しき君が御姿』 |