恩師を訪ねて【第31回】

    田能遺跡・大型木棺(17号棺と釧)


    発掘のそろばん勘定

    村川行弘先生

      大学で考古学を始める時に先生から聞かれたのは「あなた、写真が撮れますか?絵が描けますか?働かないで食えますか?」「3つともだめです」言うたら「あなた、考古学やめなさい」言われてね(笑)。実際それは、始めてみて身につまされましたけどね。
      世の中に「親のスネを囓る」という言葉があるけれども、「お前、そろそろもう幹まで囓ってんねんから…何とか、自分ででけへんか」言われたこともありますな(笑)。極楽とんぼでした。

      というのはね。いっぺん掘って見んとわからんな…と思うような場所がようけあるんです。地主に相談しますと、まぁ田んぼは貸してくれますわ。「ところで、どのくらい掘るんや」と。当時まだメートル法が普及してませんので「1尺5寸から2尺は掘りますなぁ」言うたら「牛が足を折るさかい、その損料も払ろうてくれ」言いよるんや。
      そんなんで、土地を借り、損料を払いながら、学生連中には「おい、○大何名出て来い。△大何名出て来い。×大何名出て来い」とね。手弁当で電車賃は各自で払わせて…その代わり授業料は無料で教えてやると。そういうことですわ(笑)。
      もちろん現場で手取り足取り教えるけど、教え方が悪かろうが反応の悪いのは蹴飛ばしたり…そんなことをやってました。それで「鬼の村川」という異名を授かって(笑)。でもその時のスタッフで今有名な人がいっぱいおりますがな。

      土地の賃料やら損料なんてのは私の自腹ですわ。一高校教師の雀の涙ほどの給料から捻出したわけです。だからね、生活にゆとりのあった試しがない(笑)。仮に埋蔵物が出てきたとしてね、それを売って儲けるとか原価を回収するっていうもんでもないですしね。
      全部それは各地方自治体に報告書と共に納めるわけです。だから地方自治体はお金を出さんで調査をしてくれて、報告書がもらえて、遺物も全部もらえる。ありがたいこっちゃなーというわけです。田能遺跡の発掘を機に「それじゃあアカン…個人では手に負えない桁になってしまう」ということでね。

       
      田能遺跡・大型木棺(16号棺・胸部に多量の玉)
      結局、田能は最終的には8億円かかったんです。そりゃもう、とっくに個人の限界を越えてますからね。当時、尼崎市は再建団体直前だったんで、5万円の金すら出ない。今もそんな状態と違うかな(笑)。ともかく、それで国がその補助をしてくれることになった。
      ところが当時、まだ文化庁がありません。だから各地方自治体に文化財担当ももちろんおりませんわね。そういう時代に「文化財保護委員会」というのがありましてね。有名な文士なんかがその長官をしてました。田能の時は小説家の山本有三さん。『路傍の石』を書いた人。それで、乏しい文部省予算の中から姫路城の解体修理やら法隆寺の修復、四天王寺や難波の宮の発掘調査、それに平城京の発掘調査など…そんなのをすべて切り盛りしてたわけですが、これを全部ストップして田能に回してくれた。

      そうすると自動的に難波の宮やら平城京の文化財研究所、ここのスタッフがみな国家公務員として勤務してるわけですが、「どないしてくれんねん」ということになる。仕事が突然無くなってしもたら…。それじゃあ流石に申し訳ないから「田能で働いてくれ。国もその心算やで」言うて。それで、うまいこと国家プロジェクトになったんです。どれだけ助かりましたか。当時の第一級の専門家がみんなスタッフ入りしてくれた。

      あの時は毎日のように新聞・テレビに出てました。読売新聞、朝日新聞、毎日新聞…これらの社長みんな北野の卒業生ですわ(笑)。トップダウンの至上命令が出てますからね。現場にはずっと中継車が待機してて。
      毎日何回かテレビの取材に応じるでしょ。「取材料、早う出しや」言うて催促してね(笑)。貰うたら、それを全部…尼崎市の社会教育課から来てる発掘調査委員にね…ずっとつきっきりで手伝うてますからね。「ほい、稼いだで」言うて渡すんですわ。
      昭和13年に橿原で発掘してた末永先生…その頃は関西大学に考古学講座ができて、そこの教授として来てはった。先生、心配でしょうがないから、しょっちゅう現場に見に来てくれてた。その度に「おい、末永先生来てはるで。取材せんかい」言うて、けしかけて(笑)。
      そしたらね、同じテレビに出るんでも…末永先生くらい偉い先生だと、私と格がちごうて謝礼の金額も違うんやね。「先生、謝礼は私が貰うときます」言うて、社会教育課に袋ごと渡してました。

       
      現場でサッサッと本を書いてね。発掘調査の終わる直前に、学生社いうところから出版したんです。そしたら、えらいベストセラーになってね。新聞・テレビの影響いうのは大きいですわ。数十万部は出た。検印用の三文判が擦り切れて3本使いましたなぁ(笑)。
      そしたら原稿料が入って来ますのや。「こりゃ、ありがたい」言うて、それもまた注ぎ込んでしもうてね。税務署から「印税の未払や」言うてお咎めがあったんやけど、実際、手にしてへんのにどないしたらえぇねん…それで、市の財務担当の部長か何かに一緒に説明に行ってもろてね…何しろ入ってきた印税が全部、調査員の食料やおやつ代に消えてるんやから(笑)。
      ほんまにね。私ら見とっても可哀相でしたよ。教育委員会いうとこは、そりゃ5万円のお金も出しようがないんですわ。無いんですもん。当時、一番苦しかった時なんでしょうな。それと市長部局にはあっても、教育委員会にまでは回ってこないらしい。お金のいる仕事をしようとしたら市長部局でないとやりにくいんですわな。だから教育委員会が気の毒でしたわ。独立しているようで予算だけは何かささやかで。そんなことも知りましたけどね。


      私はね。割かし自分の好きなことをして生きて来ました。ある意味では、周囲に迷惑をかけてきたかも分からん。だけど結局、最後の結論としてはね。田能で、もう時代は変わるだろう。個人で対応できる時代ではなくなった…そう見極めましてね。これからは地方自治体が主体になってやらんといかんだろう。
      それで手始めにね。まず兵庫県から…というのは田能のスタッフには高等学校に勤めている人が多かったんです。「君、明日から学校辞めて来いや」言うて辞めて貰った人もいて…それを今度はどこかの部署に採用して貰わんならん(笑)。ですから県に4人、尼崎市に4、5人という式でお願いしたわけですわ。

      それだけじゃ面白うないので、文部省に「全国に文化財担当技師を置かんとエラいことになってしまうぞ。これからは地方自治体が発掘調査を指導していくんや。もう個人の手には負えん。個人の厚意に甘えておったらアカンのや」そう吹聴して回ったんです。田能をきっかけに、全国的にそういう風潮にしていった。

      そうしたら漸く、ちょっと暇ができた。後は報告書を書くだけですからね。それでもまだ、しばらく職免の期間が残っていて…私は月給日だけ北野にのこのこ出かけて行ってた(笑)。まだ、銀行振込の制度が無かったもんですからね。私の代わりに角山幸洋さんという関大の教授が…この人は北野の教え子でしたけれども、世界的に織物の研究では第一人者で…彼が私の代わりに二年間、授業を担当してくれとった。
      それで月給だけ貰って、帰り際に「おい、角山君。頑張れよ」言うて。「村川先生、ほんまに叶わんワ」言うてましたなぁ(笑)。


      聞き手●石田雅明(73期)、小林一郎(78期)、谷卓司(98期)、矢野修吉(101期)
      収 録●Jun.23,2001(北野高校校長室にて)


    Update : Aug.23,2001