芦屋市教委にて八十塚古墳の遺物整理(昭和30年頃) |
村川行弘先生
北野の定時制なら何ともないんです。昼と夜ですからね。余暇の善用になる。ところが同じ昼間に、京大で学生しながら尼中で月給貰てたら問題になるやろ。しかし定時制の常勤講師だったらかまへんと。何しろ生活に困ってる時代ですのでね。それで尼中へ行って最初に金楽寺貝塚を掘ったんです。昭和23年でしたかね。学校のすぐそばですからね。
教練なんかで外へ鉄砲かついで出ると、よくあそこで一休みしてた。金楽寺の吉備神社でね。そしたら貝殻がいっぱいあるし、これは「貝塚」いうやつと違うかいなぁ…と、中学生の時からおぼろげに疑問に感じてたんですよ。
そしたら見事に出てきましてね。何のことはない、これは歴史時代の貝塚やと。貝塚は縄文だけと違うぞと。しかもこれは、いわゆる東大寺文書にいっぱい出てくる長洲御厨【ながすみくりや】(=東大寺領長洲の庄の本拠)であるということを見つけたんです。
加茂神社とのものすごい論争がある、その本拠地を見つけて、そしてその次に上ノ島遺跡という…当時は、近畿地方で一番古い弥生時代の遺跡、弥生前期の遺跡を発見しました。次から次から…下坂部遺跡もやっぱり弥生前期の遺跡で…見つけては、掘る。
だいたい尼崎は昔は「泥ヶ崎」と言うとりまして、地名から見ても「潮江」とか「神崎」とか…海に近い地名ばっかりでね。「尼崎は昔は海の中でしたから、遺跡なんかありませんねん」言われてたのが、とんでもない。「そんなことありませんよ。尼崎は阪神間でも歴史的に一番古いですよ」と。そしたら市のほうもびっくりしてしまいましてね。終いに市長が考古学ファンになってしまいまして。それで「尼崎の遺跡は全部君に任す…」なんてことになってしまいました(笑)。
現在の尼崎の遺跡の90%は私が掘りました。だいたい下水工事なんて聞くと、飛んでいって見てましたからね。50cmくらいは掘り下げるでしょ…ちょうどいいトレンチを掘ってくれてんのと一緒ですからね(笑)。
芦屋の遺跡も大半は私が調査しました。標高約200mの会下山尾根上で弥生時代の軍事集落を発掘調査した時には「これは平穏な農耕社会では無かったな」と思いました。夏休み・冬休みを利用して、6年がかりで高地性遺跡の実態を報告書にまとめました。
この間に、四天王寺の学術調査や大阪城石垣の学術調査も担当しました。大阪城では地上に露出している石垣石50万個を全部調べて、現存する大阪城が秀吉とはまったく関係のない徳川大阪城(寛永6年製)であることを証明しました。
田能遺跡・第4調査区(右)と第5調査区(左) |
私、だいたい発掘現場に入ると夢中になってしまって他のことを忘れてしまいます。それまでにも龍野の西宮山古墳というのを掘ったことがあるんです。前方後円墳です。その時は…だいたい田舎の学校には作法室という部屋がありましてね、お茶やらお花のクラブ活動をする畳敷きの部屋で。なかなかこじんまりした部屋で、居心地がええもんですから、そこへ泊まり込んで…(笑)。
北野からは2回ぐらい「早う帰れ。もう1ヶ月にもなるじゃないか」いう手紙が来てね(笑)。校長にしてみたら、そういう手紙出さんと困るやろ。だけど、まぁ…立場上困っとるだけやから放っとけ!思うて(笑)。そしたら今度はついに教頭が現場にやって来て「生徒どないしてくれるのや」言われて。
私ね「生徒」言われたら弱いんですわ。校長が立場上困るんは何ともないですけども(笑)。「あぁそうか…生徒ほったらかしてるわ」思い出してね。「そりゃ、えらいこっちゃ」言うて飛んで帰って来ました。とりあえず涼しい顔して「済まんかったなぁ」言うたら「いやいや大丈夫、よく勉強できました」言うんやな(笑)。「ひょっとしたら…私がおらんほうが、ちゃんと勉強してくれんのん違うかぁ」言うたら、皆「そうや」言いよるねん。それで、また安心して…。
あれは生徒に乗せられたんかも分からんのですが(笑)。そんな不真面目な子はおりませんからね。みんな「おらんほうがええ」言うてくれるんで「ほんまや」と思いましたわ。安心さしてくれるんです。
林校長も大したものです。大高の教頭からみえた関係もありまして、大高出身の俊秀を集めましたしね。放課後に碁か将棋か…何か雑談をしとった先生方に向かってね「そんな暇あったら勉強せい」言うてね。そんな話も聞いたことあります。ともかく学問に対しての理解は非常に深い先生でしたねぇ。ですから、私に対しても「やはり教師としての立場があるから、度を過ぎないようにしなさいな」と。「はいはい、すんませんでした」で済みますねん。ちょっと今の時代では考えられない…(笑)。
浦野校長の場合は、更にもうちょっと踏み込んで「職免にしておきますから、一段落したら帰ってきなさい。そうでないと気になって仕方がないだろうから」言うてね。1ヶ月職免とか三ヶ月職免とかね。とうとう田能の時は2年か3年の職免扱い(笑)。
今はもうそんな制度ないでしょう。ひとつの学校に何十年も勤続できないし、研究者とかそんなのもないでしょ。私らはそれが当然やと思ってた。自分の好きな時間にやってくる。何曜日は昼から仕事しよう、午前中で帰ろう…そんな、大学よりもっと自由な勤務時間でね。今そんなことしたら怒られますよ。やっぱり(笑)。
一番ありがたかったのは「専門教科、専門教師」そういう制度でしたね。これも後になって気がついてきたことですが、北野だけがあらゆる分野において専門教科を専門教師が教える。他所の学校は、日本史の先生が世界史も教えんならん、政治経済も教えんならん。そんなもん、できるハズないんです。地理も教えんならん。そんなもん…えらいことなりますよ。それが北野では、そういう考えられないような馬鹿げたことはなかったですね。
とりわけ北野の定時制は、生徒もすごいけど先生もすごい人ばっかりで。この10年間ほどの法学、経済学、人文科学(社会科学系しか知りませんけれど)の第1線のリーダーばっかりです。私も知らん間にこんな狭い分野で長老になってしまいましたが、みんなそういう立場になってますわ。
私もね。後に私学へ行ってから「月給は自分で稼ぐもんや、天から降ってくるもんと違うよ」とちょっと学びましたけどね。北野の時にはそんなこと考えたこともなかった(笑)。要するに勉強しとったら月給くれるんや、と思うてましてね。
生徒の質もずいぶん裾野が広がってきて。「受験校いうたら国公立しかない、せめて関関同立が最低線や」ぐらいやったのが、そのうち「日本にはようけ大学があるんやなぁ」と気付きはじめて(笑)。昭和50年代、60年代に入って、どんどん裾野が広がってきましたからね。
ある日、何かのことで私の大学(大阪経法大)の受験生に北野高校の出身がおる…ということを聞いて、飛び上がってしまいまして。「北野から経法大を受ける?とんでもないこっちゃ。何かの間違いやろ」思うて。北野に「どないなってんの」と確認の電話かけたら、これがホンマやねんな(笑)。「いろんな生徒がおりまして、本人の志望で受けておりますので、こちらから指導したわけではありません」言うんや。「これはエラいことになったぞ」思うてね。
来たら来たで「よう来てくれた」言うて可愛がりましたけど。さすがは北野の卒業生らしく、頑張って立派に成長してくれました。嬉しゅうて就職の世話までしましたよ(笑)。
その時はまだ不心得なこと思ってましてね。教師の指導が悪いから、折角の俊秀をうちのようなレベルの大学へ寄こさざるを得なくなったんや、と。でけん奴をでけるように伸ばすのが教師の仕事やろが。北野、腐っとるぞ…。北野のある教職員に言うたら、違うんやね。今はもう昔と変わってるんやな(笑)。
もちろん現在では経法大のほうも随分とレベルが上がってきてて、超一流の企業に就職したり、司法試験・公務員試験・教員採用試験などに次々と合格者を出しています。
聞き手●石田雅明(73期)、小林一郎(78期)、谷卓司(98期)、矢野修吉(101期)
収 録●Jun.23,2001(北野高校校長室にて)