橿原神宮における勤労奉仕(53期卒業アルバムより) |
村川行弘先生
ところが私らが当たったところが遺跡でしてね。ちょっと掘ったら縄文式土器…いわゆる縄文後期の土器が出てくる。屈葬した人骨もね。これには「ほぅ〜」と思いましてね。1寸=3cm地下を掘ってみたら記録にないことがわかるのん違うか…そう感心したわけです。
それで、後に橿原考古学研究所の所長になる人ですが、末永雅雄という人が橿原公苑調査の責任者でおられたんです。当時から著名な考古学者でしたから、この人に「縄文後期の土器がでております。深鉢のようです」と言って持って行ったんですわ。そしたら一言「これは神代のものですね」と。
中学校の生徒でも「縄文後期」と分かるものを、偉い先生が「神代のもの」とは、これは一体どういう了見なんやろうかと当時は心の中で勘ぐりましたけれど。今になって、立場が逆やったら私もそう言って逃げてたやろな…と、その心境が理解できるんです。相手がたかが子供やからいうて「あぁ、これは縄文やな〜」なんて言うとったら、いっぺんに特高警察が飛んで来たやろ思いますよ。不敬罪は死罪ですからね。そういう辛い研究をしてはったんやと思いますね。それが猛烈に意欲を持った最初のきっかけかな。
昭和15年には河内の国府の発掘調査を京大がやりまして。北野の卒業生…正確に言うと中退生なんですが(笑)…濱田耕作先生が担当なさった。曰く因縁のある方で…たぶん4年生で北野を退学されて早稲田に行かれたのかな。後に京大の総長になる…豪快な御仁ですが。
そんな先生方が掘ってはる遺跡を目にしましてね。「土の中から歴史を組み立ててやろう」と決心したんです。というのは当時、私は歴史が好きで『古事記』やら『日本書紀』やら古い文献はもう大概読んでましたし「歴史屋の麻薬」とも言われる『太平記』もしっかり読んでいて…だいたい歴史をやるような方は皆『太平記』を読んで歴史に魅せられてしまうという話をよく聞くんですが、確かに魅力的な本ですよ…ちょっと深入りし過ぎてるぐらいに歴史に興味を持っておったんです。
しかし、これは書いた人がそう思ってるだけであって、事実かどうかは分からへんやろなと。特に『太平記』に対しては『梅松論』がある。南朝側と北朝側の記録が違うのもちょっとこれおかしいのんと違うか…そしたら、見る目によってコロコロ変わるものよりも、ものは言わんけれども間違いのない地下の文物、これのほうが確かなんと違うか。
そういったわけで非常に大それた考えになるわけですけど、「地表下にある物で歴史を組み立ててやろう」そういう気を起こしたんです。ですから、京大に入った頃には学生の領域を通り過ぎるくらいに勉強してました。私の「実証の地域史」の出発点です。
聞き手●石田雅明(73期)、小林一郎(78期)、谷卓司(98期)、矢野修吉(101期)
収 録●Jun.23,2001(北野高校校長室にて)