村川行弘先生
私も長いあいだ担任したりして、受験に失敗して落ち込んでる子を慰めたりしたことがあるんですがね。実は、私もその経験者でして。S高しか受けなかったんですよ。S高すんなり通るつもりでね。予備というものを考えてなかった。「通るのに何で予備が要るんや」ちゅうわけで(笑)。考えてみたら馬鹿な一本気だったですな。2つぐらい受けれたんですけれども「受験料がもったいない」というような、さもしい根性やったんやと思うんです。
ところがね。私の年代は落ちたら徴用令があった。戦局がそこまで来ていて、進学できなかった者はすぐに軍需工場か何かに動員されることになってたんです。
結局、S高しか受けず見事それに落ちましてね(笑)。そしたらもう行くとこない。「えらいこっちゃ!徴用令が来るぞ」と、家中大騒ぎしましてね。中学校の先生が走りまわって、関西大学の予科に入れて貰うたんです。お陰で…私はちょっと関大には頭が上がらんのです(笑)。ずいぶん感謝しながら行っとりました。時局柄、グライダーや飛行機の操縦を習う航空部に入ったり、当時は少なかった自動車運転免許のおかげで陸軍のトラックで爆弾の運行試験もしました。
そしたら学徒出陣。なかなか人生というのは思い通りになるもんではない(笑)。「こりゃあ、エラいこっちゃで…」言うてたら、案の定ぱちんと引っかかりまして。大量に…クラスの半分以上が兵隊に引っ張り出されました。それで一応、即席の将校養成の…私の人生で体験した一番厳しい訓練を受けまして。現在も役に立っている、素晴らしい訓練を(笑)。
そうこうするうちに終戦を迎えて無事戻ってきました。そしたら「もう、予科は卒業して経済学部に入っております」…感謝しかないですわな(笑)。「スミマセン。それ…実は退学したいんですけど」言うてね(笑)。
昭和21年に京都帝大の史学科に入学して、何倍かの難関を突破した時には、さすがに気持ち良かったですな。そこで漸くS高の連中に追いついたわけです(笑)。それで大人しく順調に行ってれば、昭和23年には京大を卒業さして貰えるハズやったんですが、事情で国史学専攻も履修して25年に出たんですわ。
ところが、お上のほうは私の勝手な行動とは別に、前年の23年に阪大に法文学部がでけたもんですから(経済学部はその後でけるんですけど…)そっちへ連れてってしまおう…そういう腹づもりだったらしいです。そんな人事に関する打ち合わせなんて…こっちの学生の身としては知り得ないですからね。向こうは勝手に思うてる、私は勝手に自分で人生の計画を立ててる。それだけのことやったんですが。
私は戦後日本考古学の第1号なんです。それまでというのは「神武天皇以前とか天照大神よりも古い歴史」は調べられなかった、調べてはいけなかった。「これは縄文時代のものです」とか言おうものなら…いっぺんに特高警察に不敬罪で捕まったわけです。いわゆる皇国史観ですね。それが戦後、真っ先に解除されて、無くなった第1号というのが私らの世代。もう、日本の古代史も自由に研究できるわけです。
ま、それで…就職口は他にもあったんですが、とくに阪大にこだわる必要もなかったんですけど…ともかく昭和25年に京大を卒業しまして「阪大へ来い」と請われるがままに大阪大学法文学部の大学院1期生となったわけです。
当時は今村荒男という医学部の名医が総長でして、そこへ教授と一緒に挨拶に行きましてね。「これから本学も大学院生をどんどん採用するから、そのお手本になるように」って言われてね。業績を上げてくれと言うわけです。そしたら何か仕事せんとしゃあないわな、と。
結局、京大時代の研究と一緒でしたけどね。助手が非常に親しい博学の人でしたので、彼に教わりながら一緒に仕事してました。院生室なんかありませんので、教授の研究室に机1つ置いてもらって、教授と机を並べてね。
そんなわけでね…関西では、何のかんの言うても、政治経済あらゆる面において関大の派閥というのが物凄いんです。やはり、助け合い…信用できるから派閥が幅を利かせるわけ。そして京大、これがエリート層をぎゅっと握ってる。阪大は、京大ほどじゃないけれども、批判組の大きな勢力を担っている。この3つ全てが私の同窓生なんです、これは他の人から見ると強いですよ(笑)。
聞き手●石田雅明(73期)、小林一郎(78期)、谷卓司(98期)、矢野修吉(101期)
収 録●Jun.23,2001(北野高校校長室にて)