村上正己『デモシカ先生奮闘記』より
五、北中とラグビー
北野中学は日本でも屈指の進学率の高い学校ではあったが、スポーツにおいても決して弱い方ではなかった。中でもラグビーは天王寺と並んで有名校の一つであった。この二校の間には早慶戦にも似た定期戦があって、全校生徒の血をわかせたものである。
僕はラグビーについてはほとんど知識がなかったが、同窓の先輩がラグビーの部長をしていた関係で、お前も監督としておれを助けてくれというのでラグビーに縁を持つようになった。
最初の頃はスクラムのためにプレーが中断されるのでじれったい思いがしたものであるが、戦術がわかるにつれて無闇に面白くなった。野球と違ってプレーの間は息つく暇もない緊張が続く。タックルの勇敢さ、バックのパスによる進攻、スクラムの力強さ、僕はすっかりそのとりことなって、それまで面白かった野球がなんだか間ののびたものになり、興味を失って行った。
天王寺中学との試合には関係の先生は随分と気をつかった。ゲームの行われるのは花園ラグビー場であり、これには両校ともに全校生徒が応援に出かけるのである。気をつかうのはこの応援団の間にトラブルが起こるからであった。
往復には唯一本の近畿電鉄があるばかり。興奮した生徒を同じ車輌にのせることは避けなければならない。そこで乗り降りする駅をかえることにし、天中がラグビー場前で乗降する時は北中は一つ手前の花園駅を使用する。両校協議の結果毎年この駅を交代することにし、応援席も東西の席を年ごとにいれかわることにした。
西側には立派なブリ−チャーがありこれが正規の観覧席であるが、東側は簡易席で観客の少い時はほとんど使用することはない。かように二分することによって衝突を回避したのであるが、それ程に生徒は熱狂するのであった。
昭和十三年の秋の試合、力は互角と評判されていたので緊張は高まった。いよいよ試合がはじまると天中の方がおし気味で後半になっても北中は奮わず、終了五分前に追った。最早絶望と応援の声も枯れつくしたその折、突如として奇跡が起こったのである。敵陣深く攻めこんでもつれあう中から、スタンドオフの竹内が見事にドロップゴールを決めたのである。いままで血の気のあせていた応援席は俄然わき立った。
ワッショイ、ワッショイ早鐘にも似た絶叫にせき立てられてか、選手も見違えるばかり勢づいて、ノーサイド寸前トライ成って見事な逆転勝ちを演じたのである。
翌年三月、選手十五名の中十三名は卒業し、残ったのは竹内、金子の二名だけである。これで昭和十四年の秋の天中戦に勝てる見込はないと私は判断した。去った先輩の後をついでラグビー部長となった私はキャプテン竹内を呼んで、今年は到底勝ち味はないから三か年計画で捲土重来を期すことにしようと相談をもちかけたが、彼は承知しなかった。三か年なんて彼にとってはうつろの話で、明年三月には彼自身が卒業なのである。いや、やれます、新メンバーで優勝しましょうと彼は中々強気であった。
その年の夏、私は新メンバーの部員をひきつれて徳島に教育会館を借り、ここで合宿をしたのである。当時会館には宿泊設備はなく、テーブルをよせあってベットを造り、それの上に寝起きをしたが、先輩の来援もあって、不便も暑さも何のその、選手は火の玉となって猛練習にうちこんだ。ラグビーの練習にはとかく事故が起こり易く、すり傷、ねんざは言うまでもなく、時には骨折さえひき起す。
その年も一人足のくるぶしの骨を傷めて、大阪まで私が付き添って送りかえす事故があった。
そんなこともあって生徒の健康には格別の配慮をしていたところへ、一人脚気の患者が出た。医者に見せたらラグビーの練習は無理だろうという。本人にもよくそのことを話して、二、三日休養させることを承諾させてグラウンドに立った。練習がパスの基本動作の間は彼もじつと我まんしていたが、集団プレーに移るともういても立ってもいられないらしく
「先生やらしてください。」
と頭を下げる。「いかん、いかん」と答えると
「先生お願いです、先生、先生!」
と泣き出した。ううむと僕はうなった。
「先生、僕やります。」
とうとう彼はかけ出した。その姿はスタートラインをとび出す競争馬にも似たすさまじいものであった。
「浪速のぼんぼんも、尾張藩のごんたも、本質は少しも違いない。」
という感じがさっと脳中をかすめた。青年は頼もしい、この意気、この感激が日本を支えてるのだ。何という素晴らしさであろう。 しかもこの生徒は教師の眼から見れば北中でもおとなしい部類の和田という、お医者のぼんぼんである。彼にしてこの気塊があるかと強い感銘を受けたのであった。
僕は北中というものを一つの固定した類型としてとらえて、そこに起る現象をこれに照らして説明しようとしていたがそれは誤りであった。日本の青年は日本民族として固有の大きなうねりの中にいる。このうねりをとらえて教育をすべきで、うねりの上の小波に迷わされてはならない、と判断した。
校長の意図によっては校風も変え得るものであろうとも思えて来た。ともかくこのグラウンドで起きたほんの小さな出来事が、私にとっては大きな教訓となった。
この夏の合宿によって選手の技量は格段に進歩し、四国での練習試合も連戦連勝、良い気分で九月同志社と対戦したところ、ころりと負けてしまった。「まだ駄目だぞ」としごきがかかった。その勢をかってその年も天王寺を倒し、全国大会に出場して準々決勝に進出、ラグビーの王者秋田工業と対戦、前半六対○とおされながら後半よく粘り、和田のトライと竹内のペナルティによって六対六と引き分けに持ちこんだのである。
私はその時は千葉中学へ転勤していたが、正月を大阪で送り応援に出かけたのであった。当時の規約で引き分けは柚せんによって勝敗をきめることになっていて、無念至極ではあったが秋田に代表権を譲ったのである。秋田は美事に全国制覇したのであるから、この柚せん負は選手は言わずもがな北中ファンの生涯に残る痛々しい記録となった。
十三人の新人では到底駄目だという消極的な考え方は青年にはなり立たない。やればやれるものであると、これも私に教育の眼を聞かせてくれた。それをやりとげた竹内という主将は、素晴らしい男だと深く感銘したのである。
Last Update: Feb.23,2000