村上正己『デモシカ先生奮闘記』より

      六、国史、教育に君臨す


       昭和十二年にのろしをあげた支那事変は、日を経るに従ってどろ沼へと深くはまりこんで行く。どう始末をつけるつもりだと問うても満足に答えてくれる政治家も軍人もいない。
       軍は聖戦(ホリー、ウォアー) と宣伝してるが、英米では日本は線と点だけ支配しているとひやかしている。点とは目ぼしい都会で、線とは鉄道であり、日本はほんのちょっぴり線と点とを確保してるに過ぎないと言う意味である。

       ずばぬけた偉傑を持たない民族は哀れなもので、日本はどんぐりの勢ぞろい、それ等が相談しても良い知恵の浮ぶはずがなく、ずるずると深みにはまりこむ一方であった。軍はあせる。あせっては葉隠なんどと精神主義をおしつける。その軍の威勢に乗っかって曲学阿世の輩が、国史を教育の最高位にのし上げ、大阪では入学試験を国史一科目にしぼってしまった。何とか申す硯学の発言力が強くてかくは相なったと、しもじもには誠しやかに伝わっていた。

       こうなると小学校の教育はもう国史一辺倒、これに便乗して出版界は算数も国語も棚にあげ、国史、国史と、手をかえ品をかえて参考書やドリルものを矢つぎ早に世に送る。文部省の指導要領糞くらえだ。
       入試はかくも教育を歪めるものである。昭和十四年四月、私は一年生の担任となったのを機会に、受持の生徒五十名に、入学式験に当って、どんな風に準備教育を受けたかを書かせてみた。その中の目ぼしいものをここに抜すいすることにしよう。


      • 国史の勉強はますます劇しくなる。学校ては府の命令で、国史の時間以外は受験準備はできないので、家で毎日午後十一時まで、遅い時は一時頃までも教科書、参考書、問題集によって勉強した。

      • この間の苦心は涙が出る程でした。学校では毎日、国史の教科書を復習し、家へ帰ってからはその予習をし、試験も度々ありましたし、宿題も沢山ありました。毎朝毎晩、国史の教科書を神棚に上げて、合格を祈りました。

      • 六年生になったら僕らは国史に全力を注ぎ、上巻下巻を毎日暗記させられた。宿題として一課ずつ暗記して行き、先生にそれを聞いてもらい、合格したら本に判をおしてもらう。

      • 国史の教科書をなんべんも読みこれを暗記し、漢字や地図を覚え、またプリントを買って来てはこれを書き、二十冊も仕上げた。

      • 遠足で先生が変わった花を持って来られて、これは何かと聞かれた。友達が国史のほかは何も知らないと言ったので、皆はどっと笑った。

      • 学校は五時まで僕等を教育し、また晩の六時から八時までは先生のお宅へ勉強に行き、帰ってからは家庭教師についてプリントをやり、それから宿題をやるので、寝るときは何時も十一時か十二時頃であった。

      • 毎日第一時限第二時限は先生の問いに対して答え、頭をねり、いろいろな問題に当りました。これより前、五年生の三学期から国史の暗記をはじめ、六年の一学期の終わりに一巻二巻三巻、みな暗記してしまいました。暗記の前には国史教科書の「全写」をやり、一学期にこれを終え、二学期から三学期まで長帳(ワークブック)を十冊仕上げ、また日に暗記を三課ずつ、漢字全写を五課ずつやりました。三学期は日曜祝祭日もおおかた学校へ来ました。

      • 毎日国史があるので、僕はもう国史に飽いて来た。昨日も晩おそくまで国史をやったためであろう、学校へ行き授業がはじまる頃になると段々ねむくなって来た。はじめの中はねむたさを我まんしていたが、遂にこらえることができなくなり、うとうととしていると「藤山」と先生に言われたような気がした。皆の顔が僕の方を見ている。・・この頃新聞に国語になるかもわからないと書いてある。国語に変わったら大変だと思った。

      • 夏なんかとても勉強が出来ない。暑いのだ。といって勉強を怠る訳にはいかない。晩の暑いこと、いろんな虫がとんで来る。窓をあけると蚊がはいる。しかしこの苦しい勉強をつづけなければならぬ。


       これが当時の十一才から十二才の子供に課せられた重労働なのである。勿論この受験勉強に対しては強い社会の批判があった。がその批判する人自体が学校を評価する時は、その学校から上級学校へ入学する児童の数を基準にするのであるから世の中も狂っている。

       監督官庁は世論にこたえて、学校がやる余課(補習授業)に対して厳しい監視の眼を光らせたが、民を治むるに法をもってすれば、民免れて恥なしであって、学校では硯学の眼を逃れるためにあの手この手が研究された。
       「・・ある時余課をやっていたら非常ベルが鳴ったので、僕等は本をしまって、窓から大急ぎで逃げ出しました。そしたら硯学でないことがわかって、みんななんだと大笑いしました。」
      これは一年生の書いた作文である。勿論小学校が皆このようであったとは推定できないが、かようなことが行われたこと自体教育上の重大問題である。ある先生の話によると、
      「なあに君、修身なんてな学科やるものかね。そりゃ時間割にはちゃんとのってるよ。だから児童は机の上へ修身の教科書は出しているよ。出しておいたってそんなもの教えるものか。みんな国史をやってるんだ。
      ただ、硯学が来た時の用意に修身の本を置いているんだよ。硯学が不意に現れた時は級長が立って、早速修身の本を読むことにしてある学級さえあるよ。陽動作戦という奴でね。
      大体硯学を教室へよこすなんてな校長はかけ出しの素人で、ベテランになるとちゃんと校長室へ迎え入れて薄茶の一ぱいも出す、その間に全教室へ指令がとぶようになってるんだがね。もっとも中にいけずの硯学がおって、直接教室へのりこむこともないとは言えないがね。」
      と小学校の実態を教えてくれる。
       学校で教えないのは修身だけではない。算数と国語という旧来の最主要課目さえ手抜きをされるのである。北野中学校へ分数計算のできない子が入学したのは、創立以来この時が初めてである。私は試験の答案を見て驚いて聞いてみると通分を全然理解していないのである。また授業の時、利率という言葉が出たら、一人の生徒が利率とは何のことですかと質問する。
       「お前達利率を習わなかったのか。」
      と反問すると、大多数の生徒からは習いましたと声がかかったが、少数の者がそんなこと習わないと頑張った。いや習うことは習ったが、先生が一ペん説明しただけだと答える者がある。そうだ、そうだ、と賛成者がある。
       「僕等は教科書の最後の部分は、家で見ておけと言われただけで、学校では習っていません。」
      と先刻質問した子が釈明した。
       文部省が教育目標として何をかかげようと、校長がどんな校訓を定めようと、結局それらは絵に描いた餅にすぎないのだ。先生も父兄も児童もみんな入学試験を原動力として動いているのである。しかも一流学校へ入学する生徒の数がその学校を評価する基準となるのであるから、この弊風は改善きれる見込はない。


    Last Update: Feb.23,2000