村上正己『デモシカ先生奮闘記』より
二、校 風
私は北中就任後しばらく塚本に住んでいた。学校から十分位の道のりで便利であったが環境がよくない。
家の裏にどぶ川(大阪でいじという)があり、その向こうは遥か塚本の国鉄駅に至るまで一面の湿地帯である。昔はただでやると言われてももらい手のない土地であったという。私はその中をうねくねと縫う細道伝いによく散歩したものであるが、路傍には至る所に肥え溜めがあり、臭気鼻をついて不快である。
長男が成長するにつれ、小学校のことも考えて、どこか転宅先を捜さなければならなくなった。六甲から住吉方面もあさったが適当な家がなく、結局阪急沿線の豊中に住むことにした。宝塚線の豊中駅から十三まで電車で通う身になったのである。ある朝混雑した電車にのりこむと
「先生どうぞ。」
と席を譲ってくれる生徒がいる。私は面くらった。愛知一中在職十年、生徒に席を譲ってもらった記憶がない。譲ってもらうどころか一度先生が楽しくやっていた庭球をやめてくれと抗議を申しこまれたことがある。庭球部の生徒が使用するためである。その時は流石に温厚な仏っつあまも怒って
「君達何を言うだ。君等がやっていても先生が来たらどうぞと言ってあけてくれるのが常識でにやァか。それをだ。先生がほんの三十分か一時間それも選手のやるコートでもないのを使ってるのに、やめてくれとはなんということ言うだ。」
と声をあらげて叱りつけた。が生徒は承知しない。
「僕等がやるのは体をきたえるためだ。先生達のは娯楽だ。だからやめてもらうのが当り前と思うな。」と理屈を言う。
こういう生徒に慣れてる身にとっては、人間味のあるここの生徒の心遣いには何かほのぼのとしたものを感じた。立って私の前の吊り革にぶら下った彼は
「先生この線でお通いですか。はじめてお会いしますが…」
と物慣れた口をきく。
「いや塚本へいたんだが最近こちらへ移ったんだ。豊中のお稲荷さんの近くだ。」
「そうだっか。ほんで今まで見なかったんでんな。この線へ北中の生徒ようけいますよ。
田中も吉田も坂上も、みな豊中です。」
「そうか皆ようできる連中ばかりじゃないかね。」
「そうです。あいつ等ようできます。たまに僕みたいにあんまりできのようないのもおりますさかいに、皆が皆優等とはいえまへん。ほんでも級長や副級長ようけいいますよってに、この電車は優等生電車でんな。」
「僕はね。入学試験の時、どこの小学校がよく入学するか注意して見てたんだがね。豊中の克一、克二、克三など皆よく出来るね。克三なんか今年四人来て皆百番以内ではいったよ。凄いね。」
「ほらあ先生、豊中はええいうので余所からようけい移って来やはりますさかいに、ほんでようなって来たのと違いまっか。僕も克一ですけど、そらあ先生準備教育もきつうおまっせ。」
「そんなにやるのか。」
「わてかてお日さんのある中に家へ帰ったことおまへん。」
「そんなにやるのかね。でも余課やったらいかんのと違うか。」
「あかん言うたてよそがやるよってにやめられしめへん。」
と実になめらかによく話すのである。人をそらさない社交性が身についている。勿論これは一つには個性にもよるのであろうが、全般的に見て浪速のぼんぼんは口が発達していて、流石に商都を担う二代目であるわいと感心させられる。
私はここで校風というものをしみじみと感じさせられた。一中スピリットをバックボーンとして、スパルタ式訓練に特徴を持つ愛知一中と、北中生としての気品を保てと、ゼントルマンを目標とする北中と、何もかも対照的であった。
ある日、宿直室で早慶戦の放送を聴いていたところ、慶応がヒットをうつとわっと喚声があがる。これは私にとっては思いもかけぬ現象であった。一中では三浦、夫馬という一流選手が早稲田へ入学したことや、飛田氏がコーチする関係から、全校が早稲田ファンであった。人間というのは妙なもので、そんな雰囲気の中に十年間もいると、若い奴は皆早稲田ファンであるかのような錯覚をいだくものである。私も知らず知らずの間にそうした感覚を持ちあわせていたのである。私はいあわせた先生に尋ねた。
「ここは慶応びいきなのかね。」
「そうだよ君、ここで早稲田に応援しようものならドウづかれるぜ。」
と言う。猛烈な慶応ファンなのである。
そう聞くと思い当る。校風がほとんどすべて早大対慶応という形で対照的であった。それはまた武士と商人という形としてもとらえることが出来た。尾張三河の武士道と、大阪商法とである。校風は卒業後の進学にも見ることが出来た。一中からは大学志望者はほとんどが八高を目ざして勉強し、八高東大コースを選んだ。だから八高は一中の続きであるような感覚を持っていた。事実八高生の二十パーセント内外は一中出身者で占めていたのである。これに反して北中生は、その学力に応じて北は北大から南は台北大に至るまで、日本中どこへでも出かけて行った。四高へ十名、七高へ四名という風である。人間至る所に青山あり、行くとして可ならざるはないのである。
私はいろいろと想像してみた。大阪人といっても生粋の浪速っ子はむしろ少くて、多くは各地方からのよりあいである。いわば大阪で一儲けしようという一旗組が多い。その子孫だから地方へ出ることを少しも苦にしない。ある意味での進取の気象となっているのであろう。いやそれよりか、適する所へ行くという実利主義が身についているのではあるまいかとも考えた。
私は歌舞伎が好きでよく観劇したが、特に六代目と播磨屋が大好きであった。この二人の芸風は全く対照的であった。播磨屋の演ずる塩原多肋にしても佐倉義民伝にしても、只一すじに迫真を追及し、深刻そのものであった。本人の性格もそうであったのかも知れないが、これでもかこれでもかと深く深く掘り下げて行くのである。これに反して六代目の芸風は豊かさがあふれていた。鏡獅子や保名の舞台は、そのて一こまが絵であった。何時シャッターを切っても芸術として成り立つと思えた。それを見ていると、春の野辺にふわりふわりと浮び出す心境となり、うっとりとなるのである。
私は一中は播磨屋で、北中は六代目だと結論した。
私は教育としてどちらが勝れているかを考えた。これはどちらが良いというよりも、どんな子供に対してはどちらの方が適するという表現の方が適当なのであろう。芸術などでその天分をのばすには北中の方がまさっているのではないか。ここには佐伯祐三という天才的な画家を出している。佐伯の絵は学校にも一枚寄贈してもらって掲げてあるが、これが後輩の刺激になってか、その道に志す者も少なくない。俳優には森繁久弥がある。彼は在校時代よく校長や先生方の物真似を演じてクラスの人気を集めていたとのことである。皆それぞれの個性をのばしたのである。
それと対照的に一中は祖先の伝統を守り、固く生きぬくのには適しているだろう。名古屋財界の人人は子供の出来が良かったらそれを皆一中へ入れた。伊藤松坂屋、岡谷鋼機、大熊鉄工、豊田家皆これで、立派に何代何十代目を引き継いでうまく行っているのである。
二つに共通なのは高校(旧制)や専門学校への進学意欲が旺盛で、これが職員室や教室の雰囲気を醸成していることであった。二学期に入ると生徒の眼の光が変わって来るのである。つまり注意力が教師の言うことに集中するのであった。これに対する学校のやり方も同じであった。 一回二回と模擬試験をくりかえし、その成績によって向うべき学校を選定したり、合否を予想するのであった。
従って入試に関係ある学料は真剣になるが関係のない学科には熱をいれない。地理の時間にこっそりと単語帳を出して英語をやっても授業の妨げにならない限り先生も大目に見るということになる。
中学教育もまた小学校と同様に入試によってかくも大きく左右されるのであった。
両校ともに社会のエリートを養成しつつあったことは共通であり、その踏み台の役を果すことが教育に携る人達の最も手近かな目標であった。だから一人の校長が来て真の教育を唱えてみても、この校風が変わる道理はない。試みに卒業生名簿を開いてみると、御曹子は一般に社長重役、庶民は十年から十五年たつと係長課長、二十年で部長クラスになっていてエスカレーターへ乗ってるのだなと感じとられるのであった。これだから一中へ北中へと親は血まなこになるのである。
Last Update: Feb.23,2000