阿部俊一先生
「植芝先生おられるんか?」玄関を開けると万川さんがいて「そうなんだ、昨日道場開きしたんだ」という。私は田中さんは知っていたけれど、彼が合気道をやっていることは知らなんだ。
しばらくして翁先生がお出ましになり、初対面の私は「二木先生の弟子です」と言った。そしたら、すぐ「上がれ上がれ」となってね。このときに聞いた翁先生の話は難解やった。鎮魂帰神のさらに上のほうの話をなさった。こんこんと話を聞かされて…「お前、明日から来い」ということになった。
大変なことやった。二木先生の師匠でもあり、合気道の開祖ともいうべき植芝翁に弟子入りを許されたわけや。その時分は滅多に弟子入りなんて出来なかった。紹介者が2人はいないと教えて下さらんかったくらいの御仁やったんや(笑)。
戦争中、植芝先生は憲兵学校(陸軍中野学校)で合気道を教えておられて、民間には出てこられなかった。それで敗戦後、A級かB級か知らんけど…戦犯の指名を受けて、M.P.がジープに乗って捕まえに来たんや。
たまたまその時、植芝先生は高熱で寝てはったんやけど…外人の優れているとこは「何が何でも即刻、強制連行」という姿勢ではなくて「病人や(逃げることもなかろう)」というので、とりあえず家宅捜査を行ったんやな(日本の軍人やったら…いかに病人であれ、戦犯は巣鴨へ引っぱって行ったと思うねん)。
そしたら…書いてあるものが皆、平和主義なんや。どの文章を見ても平和を主張することばかり書いてあったわけや。それで「確かに軍部で武道の教官を勤めてはいたが、ウエシバの人となりは平和主義者そのものである」ということが分かって…それで戦犯解除の第1号になった。結局、それで巣鴨へは入ることもなく、百姓暮らしをしてはったそうや。
植芝翁先生の書は永遠に遺り、 永久に光り輝き世界宝となる。 |
24時間そばにいて気を練る。大先生の喜怒哀楽というものが、みな生で伝わってくる。いわば大先生の生命に接していた。これがすごかった。
たとえばお茶を出すにしても、先生がどのくらいのどが渇いていらっしゃるかを察して湯の温度を考えなければならないし、風呂を沸かすにしても、湯舟に直接手を入れないで手桶にお湯を取ってから湯加減を見たもんや。手を直接入れると私の手の油がわずかでもお湯に移る。それが先生にわかるわけや。それでは「弟子の道にあらず」なんやな。
そうして「気」というものを鍛練するようにしたんや。その「呼吸」は、書にもまったく共通するんやな。
ある日、植芝先生が「面白いな、わしも書いてみようか」と書を始められた。確か「合氣」と書かれたはずや。その日から「弟子が師匠に教える…」という滑稽な逆転劇が始まった。こんなことは普通、考えられないことやから…私も非常に緊張したんや。
まず、手本は渡さず「見ておいて下さい」と私が模範に書いてご覧にいれる。先生はそれをじっと見てらして「あぁいう書き方もあるんじゃなあ」といった風で、それからご自分で書かれた。
一心に…ご自分のすべてのものを筆先に集中させながら、墨を通して「気」が中に入っていく。だから植芝先生の作品からは物凄い「気」を感じるんや。書に顔を合わせたり、手のひらを合わせただけで、ぱーっとその「気」が移ってくる。むしろ字が読めない外国人のほうがそうした気をストレートに受け取るみたいやな。
そして書かれるときは一気に書かれる。呼吸などはあまり考えられない。だから一番難しかったのは、最後に作品に名前を書く…その場所、位置を明示することやった。一カ所しかない、そこを指し示す…この一瞬の「気」が合気の「気」と通ずるところでもあり、阿吽の気の存するところやった。
聞き手●壽榮松正信(74期)、石倉秀敏(84期)、
谷 卓司(98期)、中西郁夫(101期)
収 録●Sep.18,1998
(吹田市元町の天之武産塾合氣道々場にて)
Mar.13,1998
(北野高校武道場にて)
協 力●佐伯新和(98期)