まえ 初めに戻る つぎ われら六稜人【第46回】「ミナミ千日前に馳せる思い」
     サントリー・ミステリー大賞受賞式にて
    第4幕
    私の夫が死ぬなんて


      昭和60年、最後に書いた初めての小説『名なし鳥飛んだ』の結果を気にしながら夫が入院4日で亡くなりました。私は相棒、保護者だった夫の死に極端にうろたえ、良くも悪くも一匹狼だった夫の後始末もあり、涙などこぼす余裕はありませんでした。

      小説は、死後20日目に第3回サントリー・ミステリー大賞を頂き、右も左も分からないのに独りで授賞式のため上京。受賞会場のホテル・オークラに「理研」の親友酒井佳子さん(故九州男氏夫人)がご主人単身赴任を幸い駆けつけてくれ、朦朧状態の私に付き添ってくれました。
      翌朝、テレビ朝日のワイドショーに、作者死亡後の受賞ということでチラッと出演させられたのを北村芙佐子さん(高校当時は同じ服部の住人)が見ていらして、卒業後初めての電話をくださいました。

      ABC『部長刑事』で篠田三郎さんと 
      ABC『部長刑事』で篠田三郎さんと
      卒業以来途絶えていた「北野」の暖かい風がホワーッと身近に吹いて来たんです。この受賞小説のテレビドラマ化の際、東京での記者発表に亡夫の代理で出席を請われ、知らない方にこれからどうするのか訊ねられて、正直書ける自信はなかったのに「部長刑事」が書けたらと咄嗟に見栄を張ってしまいました。
      すっかり自分の虚言を忘れた一月後、大阪新聞にABCの担当プロデューサーと一緒に取材され、記事の出た新聞を、たまたま北村さんのご主人が買って帰られて連絡をくださり、慌ててこの夕刊を買いに走りました。

      思ったより大きな記事に、こりゃ、書けということやんかと早トチリして必死で書き上げました。プロデューサーは書けるとは全く思っていなかったようですが、喰らいついてやっとオンエア。夫の死という人生最大の不幸が、思ってもみなかった私自身がシナリオを書くという無謀なきっかけになりました。
      地べたを這うように「部長刑事」のほか、毎日放送の昼ドラ「ぐるめ家族」、関西テレビの「123と45ロク」などを書き、芝居の脚本にも手を染める幸運に恵まれました。


    つぎ Update : Oct.23,2001