振り返ってみると、私たちの仕事の基本は、日本国民は戦争を起こした国とは別だということ、戦争を起こしたファシズムが悪いのであって、日本国民は中国人と同じように被害者だといえる、被害者同士で、これから平和のために戦争に反対し、軍国主義に反対していこうということです。
中国革命への私の思いをさかのぼると、最初は孫文ですね。清朝を倒した辛亥革命(1911)を指導した孫文はえらいと。小学校4、5年生のころ、当時の国民党の旗や、「革命いまだならず、同志たち努力すべし」という軸を家の中に掲げて、漫画で見た「水滸伝」など中国の農民一揆の秘密結社のまねごとをしたりした。日本が戦争して占領している時代だから、ものすごく大人に怒られましたけどね。
少年なりにそう考えたのは、中国の小学校の先生がよかったからでしょう。フランスの作家アルフォンス・ドーデの「最後の授業」という話を読んで聞かせてくれたり、「中国は歴史が古くて、文化がある国だから、外国にいじめられるのはそう長くない。そのうちに民族は立ち上がるにきまっている」、よくそう言っていました。
もう一つ、私のふるさと江蘇省では、国民党軍ではなく、八路軍とともに有名な中国共産党の「新四軍」がいた。本当に祖国のためにたたかっているのは共産党の軍隊だなと、うすうすわかってきたんです。
さらにもう一つは、北野入学の1949年が中国革命の年だったこと。解放軍が北京からどんどん南へ進む。そんなころ、ガリ版のビラを印刷して寮の中国学生にまいたこともあります。そして10月1日、新中国の成立を迎えたんですから。
最後にもう一度言いますが、私の日中友好の仕事・活動の大きな基礎は北野時代にある。食えないときに、友達が米を持ってきて、一緒に炊いてメシを食わせてくれた。金がないからキャンプに行けないと思っていたら、みんなが金を出し合ってくれた。同級生の家へ呼んでもらって、お母さんにごちそうをふるまってもらったこともよくありました。足立俊一郎君、武久慎君、森南海子さんのところでも。そういう親切が身にしみています。その土壌はなんだったか。国籍、思想などによって人を差別しないという高い精神。それが北野、そして学友にありました。その後の私の人生が日中友好のために役立つなら本望だと。これは確たる気持ちです。