まえ 初めに戻る われら六稜人【第48回】「日中の架け橋となって」
     段さんの写真
    第5章
    北野はわが人生の源


      1989年の天安門事件の時、私は自分の国民に向かって鉄砲を撃つのはおかしいという意見を出しました。そのこともあって年ですから定年にさしてくださいと申し出たんですが、後任もいないからということで延ばされて1992年に退職しました。日本へ最後に行ったのは、退職の翌93年です。そろそろもう一度訪問を、という気がおこりかけています。

      振り返ってみると、私たちの仕事の基本は、日本国民は戦争を起こした国とは別だということ、戦争を起こしたファシズムが悪いのであって、日本国民は中国人と同じように被害者だといえる、被害者同士で、これから平和のために戦争に反対し、軍国主義に反対していこうということです。
      中国革命への私の思いをさかのぼると、最初は孫文ですね。清朝を倒した辛亥革命(1911)を指導した孫文はえらいと。小学校4、5年生のころ、当時の国民党の旗や、「革命いまだならず、同志たち努力すべし」という軸を家の中に掲げて、漫画で見た「水滸伝」など中国の農民一揆の秘密結社のまねごとをしたりした。日本が戦争して占領している時代だから、ものすごく大人に怒られましたけどね。

      少年なりにそう考えたのは、中国の小学校の先生がよかったからでしょう。フランスの作家アルフォンス・ドーデの「最後の授業」という話を読んで聞かせてくれたり、「中国は歴史が古くて、文化がある国だから、外国にいじめられるのはそう長くない。そのうちに民族は立ち上がるにきまっている」、よくそう言っていました。

      もう一つ、私のふるさと江蘇省では、国民党軍ではなく、八路軍とともに有名な中国共産党の「新四軍」がいた。本当に祖国のためにたたかっているのは共産党の軍隊だなと、うすうすわかってきたんです。
      さらにもう一つは、北野入学の1949年が中国革命の年だったこと。解放軍が北京からどんどん南へ進む。そんなころ、ガリ版のビラを印刷して寮の中国学生にまいたこともあります。そして10月1日、新中国の成立を迎えたんですから。

      最後にもう一度言いますが、私の日中友好の仕事・活動の大きな基礎は北野時代にある。食えないときに、友達が米を持ってきて、一緒に炊いてメシを食わせてくれた。金がないからキャンプに行けないと思っていたら、みんなが金を出し合ってくれた。同級生の家へ呼んでもらって、お母さんにごちそうをふるまってもらったこともよくありました。足立俊一郎君、武久慎君、森南海子さんのところでも。そういう親切が身にしみています。その土壌はなんだったか。国籍、思想などによって人を差別しないという高い精神。それが北野、そして学友にありました。その後の私の人生が日中友好のために役立つなら本望だと。これは確たる気持ちです。


    Update : Dec.23,2001