われら六稜人【第19回】機長が指示を待っている
    FOW-ER
    訓練生として

      羽田に配属されたのは2年11ヵ月前です。
      羽田の場合、新人だと訓練が終わるのに、2年から3年かかります。なかには5年以上もかかかって結局資格がとれないまま転勤しちゃう人もいます。この仕事の恐いところは、他の空港に移ればまた訓練生だということなんです。年齢関係無し、おじさん達がお茶汲みからです。

      保安大の教官も現役の管制官が赴任してやっている訳ですから、教えたその子が配属された現場に、後で教官が赴任すると立場が逆転しちゃうんです。「教官、ちゃんとやって下さい」なんて言われてね。これは空港ごとの地域特性が全然違うからしょうがないんです。

      関空は広域管制だし、広島なんかは高い山に囲まれています。名古屋や那覇に行けば戦闘機が飛んでいるしね。使う周波数も、飛行経路や空域の形もまるで違います。将棋とか囲碁の定石と一緒で、詰めの手法が空港ごとに違うから、それを憶えるまではどんなベテランでも管制の仕事はできないですよ。

      保安大では教官はみんな紳士的でした。実機を扱っている訳じゃないし、卒業して現場で絞られるの解ってますから。
      学生生活が終わって羽田に赴任した訳ですが、現場ではOJT(実務訓練)ですから、甘えは許されません。先輩が厳しくってね。椅子にも座らせてもらえなくて、座ったら何やってるんだって蹴られちゃって、10年早いんだなんて言われました。

      「スチュワーデス物語」ってドラマありましたよね。
      あれより余程厳しかったですね。訓練してる時は後ろに先輩が常についていて、いつでも無線に割り込めるようにウォッチしています。しくじると後ろから罵声が飛んできます。何度も同じような間違いをくり返すと、しまいにヘッドセットのジャックを抜かれて後ろにポイッと投げられて、「おまえはもういい。帰れ!」なんて言われます。投げつけられた事もありました。

      ある日あんまり出来が悪いんで先輩に背中になんか貼られましてね、後ろで話している声聞いていたら、どうやら「私は使い物になりません」と書いてあったらしくて、もう悔しくてですね。
      でももう反骨精神というか、俺は剥がさん。貼った奴に剥がさせようと思って、そのまま震えながらやってました。もう悔しくて情けない話しなんですけど、そん時は結構つらくて、言われてる事ももっともでしたから、段々声が涙声になってくるんですよね。でも多くの人命を預かって行かないといけないのに、訓練中に怒られて泣いたなんて知られたら、もうこれで訓練終わっちゃうと思ったから、後ろも振り返れなかったし、涙を拭くことも出来なかったし、必死でやってました。

      大阪帰って、たこ焼でも焼いたらええやん
      訓練始まって一年ちょっとの頃でしたけど、先輩が飛行場管制席で使ってた無線に間違えて僕の声が入った事が有りました。その先輩が到着機に着陸許可を出す瞬間だったんです。そこへ僕が「test transmission1.2.3...」なんて試験放送をのんびり始めたものですから、先輩が激怒しちゃってね。
      背後で「馬鹿野郎ー」って声が聞こえたんです。で、その声が終わらぬうちに、グーでゴーンと殴られて。あんまりいきなり殴られたもんで、何の事か分からなくて管制室の床にへたり込んじゃいました。もう、えーっ?という感じでしたね。そん時は、これはもう辞めようかなと思いました。一年も経つのにこんな初歩的なミスするなんて、向いてないんかなと。厳しかったですね。

      でもこの一件があって逆に割りきれたですね。やだな、やだな、やだなと思ってたけど、やるだけやってみようと、北野の試験じゃないですけど、とりあえずやってみて駄目やったらもうしゃーないと。どっかであきらめて大阪帰ろうと思ってました。 十三へ帰って、たこ焼でも焼いたらええやんと思ってやってましたねぇ。おいしいたこ焼か、お好み焼き焼いてお金もうけしようかなぁと。東京があんまり好きになれなかったしねぇ。精神的に参ってましたから。

      勤務中の同僚管制官


      その割り切りが良かったのか、この一件以来はストレスも溜める事無く、訓練がこなせたように思います。その後一年位で羽田の資格を全部とれました。厳しかったですけど、先輩もそれだけ一生懸命だったんだろうと思います。人命を預かる管制官として立派に育ててやろうと。たぶんね。



    Update :Apr.23,1999