かくして、私は文系の道を選びました。文系で専門職…ということで、第1希望は法学系、第2希望は語学系と漠然とは考えていたのですが、たぶん自分としては語学が向いていると感じて、語学系を選ぶことにしました。その頃は…今のように帰国子女が大量に戻ってきて、通訳の仕事がこれほどまでに単価がボロボロに下がるとは考えてもみなかったですからね(笑)。今、通訳の仕事をしている人は泣いていますヨ。日系人の人なんか「時間当たり?百円」でも仕事をしますからね。
当時でも…英語の通訳は沢山いましたから、抜きん出るには相当の覚悟がいる。おそらく一流にはなれないでしょうね。ちょうど私が北野に在籍していた頃は「これからは中国の時代だ」ということで、中国語に人気が出ていました。しかし、今ブームのところに飛び込んでも先は見えないゾと思って…生意気に、時代の先読みなんかしてたンですね。英語、中国語をはずせば、あとは中南米だろう…ポルトガル語、イスパニア語の系統だろうな。また、外国語で生計を立てるなら留学は必須だナと思いましたから「浪人は絶対にできないゾ」ということで、外語大学への進学を選んだのです。
大学時代は必死で勉強しましたね。それには「留学したい」という大きな目的がありました。当時は1ドルが250円の時代でしたから、留学するにもかなりの資金が必要でした。親からは「学費はびた一文だせない」と言われていて…早く自立するようにという気持ちがあったのだと思います…実際、私も親に負担はかけたくありませんでした。
当時は、もちろん格安航空券なんてありませんでしたし、今のように高校生がコンビニでアルバイトして外国旅行が出来るという時代ではありませんでしたから…何とか「試験に通れば学費と滞在費を出してもらえる」というようなオイシイ留学の制度はないかと探したのです。
当時、中南米に行ける留学試験というのは外務省の「交換留学生」か、京都外大が提携している姉妹校へ留学するか、のいづれかでした。第1希望は前者でしたが、何とか難関を首尾良く通ることができました。
生活費は出るし学費も出るという…非常に好条件だったのです。ちょうど3回生を終わる頃でした。京都外大からその試験に受かる人も少なかったので、大学サイドとしても非常に喜んでくれました。大学院に進学するのも良し、助手として大学に残れるようにも…という配慮さえありました。
とりあえず留学先はメキシコ…それもなるべく都会でない(つまり現地で日本人に出会すことさえないような)ところの大学を希望しました。都会だと、どうしても日本人に会う機会があって、日本語を話してしまうことになる。だから、なるべく日本人の少ないところへ行って…自分を追いつめて、早く上達しようと思ったのでした。 |