グァナファト大学●http://www.guanajuato.gob.mx/ TURISMO/GTO/IMG/UNIVER.GIF |
そこで私は編入試験を受けて、専攻のスペイン語ではAクラスに入ってしまったのです。日本人は「文法」にはめっぽう強いものですから(笑)。さぁ、それからが大変です。そのコースは外国人向けといっても、みんなペラペラで、自国に帰ればスペイン語の先生をやっているようなレベルの人たちが来るところだったもんですから…「前日に徹夜で単語を引いて勉強していた」者なんかが、入るところではなかったのです。ノーベル賞作家の原書を1冊手渡され「明日までに…読んでレポートを提出しなさい」というような課題が平気で出るのです。もう、全然…授業についていけない。おまけに他の授業はメキシコ人と一緒だから、もちろん全部スペイン語。私は軽いノイローゼにすらなったくらいでした。
そんなある時、大学のアマチュアバンドに偶然スカウトされたのです。学園祭でそのバンドも出演することになっていたのですが、リードヴォーカルが喧嘩して辞めてしまい、あろうことかライバルのバンドに行ってしまったのです。出演をキャンセルすることはできない…かといってインスト(ヴォーカル無しの器楽演奏のみ)だけで勝負するほどの実力はない。
で、どうしようかということになっていた矢先に、いつも客席にいた私に白羽の矢が当たったのです。「1曲か2曲…『外国人』が出て歌えば何とかなる」ということで押し切らました。何しろ「断わりきれない性格」だもんですからね(笑)。
ちょうど気分転換にもいいかな…と思って、それなりに一生懸命練習はして…ようやく2曲を歌いきったのでした。ところが、どうもその演奏をたまたま音楽学部の先生が見ておられたんですね。2日後くらいに、レオノール・ピン=メーラ教授という人が突然わたしのところにやってきて「あのバンドはすぐにお辞めなさい。あなたはオペラに向いているから、私のところへ勉強に来るのです。私の授業は木曜日と土曜日です」と一方的に宣告されました。
まったく事情が呑み込めなかったのですが、教授は「これはあなたにとっても為になるハズです。あなたのスペイン語は、ひどい外国人訛がある。私のところでは発声法だけではなくて発音の勉強からするので、それだけでもスペイン語の修得になるヨ。決してあなたにとってマイナスにならない」そう、ダメ押しまでされました。
通訳になりたかった私は「発音の矯正」という魅力に負けて(?)、彼女のもとへ通うことにしました。日本にも「アメンボ、赤いナ。ア・イ・ウ・エ・オ」みたいな発音練習があるじゃないですか。スペイン語にも、そういうのがあったのです。本業の勉学がストレスの溜まる一方で、この練習は非常に息抜きにもなり、また…事実「ため」にもなったのです。別の交友関係が広がって、クラスでは聞くに聞けない質問を歌の友だちに聞くことができたり…。
この声楽トレーニングのおかげで、私は声が出るようになったばかりか、人生そのものの針路まで大きく変更せざるを得なくなるとは…その時点では思いもしませんでした。何事も計画通りには行かないものです(笑)。
そうこうするうちに留学期間が無くなって、私はいったん日本へ帰り、京都外大を卒業することにしました。
当時は中南米を紹介するガイドブックの類はほとんどありませんでした。ちょうどその頃に『地球の歩き方』のスタッフと親しくなり、そういう情報が欲しい…ということだったので、現地から案内記事を送っていました。条件も結構よかったのです。それで稼いだお金でまた次の旅行をする…そんな生活を続けていました。
今でも『地球の歩き方』の中米編、南米編には結構私の記事が残っています。「誰が行くんや、こんなとこ…危ないで」というのは大概、私の書いた記事が多いです(笑)。その頃から「文章を書いてお金をもらう」という生業が始まったのです。
また、80年代前半から中頃にかけて、メキシコではミュージシャンのムーブメントがありました。ジャズクラブなどに集まって自分の作品を交換したり、討論したりして…結構、面白い時代だったのです。
●初めてのCD『Se Vive Asi』 |
もちろん、どうしてもミュージシャンでやって行こうと思っていたわけではないのです。私はピアノは弾けないし、難しい譜面も初見では解らないし…何より専門の音楽教育を受けたワケではありませんでしたから。これも成りゆきといえば成りゆきですから、運命は不思議です。
その一方で、『地球の歩き方』などに原稿を送るかたわら…当時内戦下にあった中米各地を旅行して回り、数ケ月ボランティアで滞在するようなこともありました。そんな中で、自分の体験を市民運動をしているような人たちに紹介するような文章も書いたりするようになったのですが、そういったことが、後に、本を執筆していくことへとつながっていくわけです。
パソコン通信を始めたのもこの頃のことです。大量の情報を送らなければならない時に、ファックスで原稿を送ると送信状態によっては無茶苦茶になってしまうことがあるのです。そのうえ国際間通信だと通信料も途方もない金額になってしまいます。
そんな時、アメリカのボランティア団体などが導入していたのがパソコン通信だったのです。当時はまだインターネットなんてありませんでしたから…1vs1の通信なんですね。あらかじめ双方で時間を決めておいて、パソコンを電話線で繋いで通信するのです。
これは余談ですが…領事館に勤務の頃は、まだ和文タイプを使っていました。ふたたび中米に来て、原稿書きを生業とし始めた頃からパソコン通信を始めましたが、これが便利なんです。一度使い出すとやめられませんね。
大作家の原稿であれば誰か他の人が入力してくれるんでしょうが、いづれにせよパソコンで執筆してるでしょ(ちなみにマッキントッシュを愛用しています)。だから、入稿にはメールをよく使うんです。誤字、脱字…校正の頻度が圧倒的に少なくて済むので、編集の人から重宝されるばかりか、書き手の側から言ってもですね…締め切りが少し延びるのです。手書き原稿だったら木曜日、ワープロなら土曜日。それが電子メールだと月曜日でもいいよ…というふうにね。この1日、2日の差は大きいですよ(笑)。
ともかく、そんなふうにして…何という職業意識もなしに流されるままの人生を送っていたような気がします。そんな頃、偶然、メキシコで知り合った友人が、私がとても好きだった…あるチリの音楽家と親しい関係だったことを知りました。その音楽家は1973年のチリのクーデターで政治上の見せしめのために殺された人で、その友人もまた国外追放にされた亡命者だったのです。興味の膨らんだ私は、その事件を…なぜ彼は殺されなければならなかったかを追求して、一冊の本に綴りました。
私としては社会問題の研究発表の心算だったのですが、ノンフィクションの処女作『禁じられた歌』は、91年に刊行されるや否や図書館協会の選定図書に選ばれることになったのです。
それが契機となって他の出版社から声がかかったり、変なことに詳しい人がいるゾという噂が流れて、マニアックなレコードの解説とかを頼まれるようになりました。著作はこれまでに5冊を出しました。そのうち2冊は文庫化もされています。