われら六稜人【第30回】ECOマインドを持って
     
    第2段階
    北野は退学したけれど



      ボクは北野でも社研(社会科学研究会)と理研(理科研究会)の両方に入っていました。こんな輩は滅多にいないと思いますがね(笑)。世の中を正しく見るには社会科学的な眼と理化学的な眼の両方を持つことが必要だと…その頃から何気なく感じていたのかも知れません。
      高2の時、国際情勢は朝鮮戦争、勃発前夜というムードでね。ストックフォルムに始まった原水爆禁止運動が世界レベルで盛んになって…社研のボクとしても「これは捨てておけない」と言うんで、プール近くの通用門のところに机を置いて署名運動をしたんです。
      当時は学生がそのような政治運動をしてはいけないということで、林校長に叱られまして…ボクとしても真剣でしたから、校長室で長時間に渡って林校長と1対1で話合ったんです。なぜ悪い?という「文句」を言ったわけ(笑)。結果的に2年生の夏休みに退学処分ということになってしまいました。

      今でも、あの運動は正しいことをしたと信じていますし、これまでのボクの考え方のベースだと思っています。ご存じのようにアメリカは広島と長崎に原爆を落としましたが、当時のあらゆる状況から考えて原爆を落とす必然性は全然なかったと思います。あれはアメリカが日本を原爆実験に利用したんです。最初から日本がターゲットだった。ドイツやイタリアに落とす気はまるで無かったんです。
      それが証拠にアメリカは、わざわざB29爆撃機の改良型を用意していました。長距離運搬に耐える改良型をね。ヨーロッパに運ぶのならもっと大きくて短距離用の飛行機が良かったはずなんです。しかもイタリアとドイツが降伏宣言をしてからすぐに、日本との戦争を終結できる機会はあったにも関わらず、ある意味で「原爆実験をしたい」がために、わざと戦争を長引かせた形跡もあるんですよ。例えば、B29を撃ち落とす能力のある高射砲を造っていた大阪陸軍造兵廠を爆撃したのは、終戦の前日の8月14日だったり…。

      まあ、それはともかくとして…退学になってしまったボクは京都の同志社高校へ転校しました。ところが馴染めないんですね、北野高校から転校すると。いやいや「同志社高校が悪い」と言ってるんじゃないですよ、そんなことは書かないで下さいね(笑)。校風が全く違うし、とにかく肌に合わないって言うのかな…それで、ここも一寸だけ通って高2で辞めちゃった。
      ぶらぶらしている訳にも行かないんで、一時は電話局に就職しようかと思ったこともあったんですが、やっぱり大学へ行きたいという気持ちが強くてね。「大検」に合格して東京理科大へ進み、その後東京都立大から東大の大学院へと進みました。大学時代には生物化学を勉強して、東大の大学院(物理)を修了してからは、そのまま理学部物理学科の助手となり、それから理化学研究所へ勤めることになりました。


    Update : Mar.23,2000