長野県北佐久郡に移住(1998) 近所の農家を手伝いながら無農薬野菜づくりに取り組む |
お互いそんな気分になってきたので、最後に行きたい所をパパッと回って日本へ帰ったところが、まるまる5年経っていたのです。当初は、まさか5年も帰らないとは思いもしませんでしたが、まるで竜宮城のごとく、95年の9月にインドから関空に帰ってきました。
夫の実家が大阪にありましたから、しばらくそこに居て「これからどうしようか」と考えているうちに1年が経ちました。他人に貸していた十三のマンションの契約が切れて空き家となったので、わたしたちがそこへ引っ越させてもらい、「自然関係の仕事がしたい」と言っていた夫は造園会社に就職を決め、わたしも英語を教えたり編集プロダクションにアルバイトへ行ったりしていました。
本はその時から書きたいと思っていたのですけど、なかなか思うように進みませんでした。夫の会社も思っていたような会社ではなくて「やっぱりちょっと…こんなことがしたいんじゃない」というのと、会社の体質も合わなくて「もう辞める」ということに。わたしも「嫌なものは辞めたらいいわ」と思ったので、その後3か月間は夫が主夫をすることになりました。わたしがアルバイトで忙しかったので「家のことをしといてよ」って具合。
その時に「思いきって田舎のほうに移ろうか」という話になりました。田舎暮らしについては放浪中から「ちょっといいよね」って言いあってたんです。「どうせ田舎暮らしをするなら、信州がいいな」と思って、農業の説明会があるのを知って、2人で聞きに行きました。
そこに来ていたのが、この町のグループだったのです。わたしたちも調子がいいので、またまた意気投合しちゃって、なんかワ−っと盛り上がりました。「いい人たちだねー」って。
その時は望月町がどんな所かも知らずに「なんか、こういうのも縁かな」って感じでした。それで、とりあえず夫だけが1年間「研修生」という形で高原野菜を作っている農家に寄宿させてもらうことにしたのです。
そこは無農薬とかは全然関係なくて、いわゆる慣行農業というか…普通の出荷を大規模にやっていて、キャベツとかレタス、白菜などを作っていました。
わたしはわたしで…何度も引っ越しを繰り返すのも大変なので「月に1〜2回は様子を見に長野に通うから」という約束で1年近く別居していたんです。一応「単身赴任」ということなんでしょうか(笑)。夫は農家の離れに住まわせて頂いて、皆さんにとてもお世話になりました。
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無農薬で作った野菜は、大阪や東京の友人・知人、両親の友達や知り合い等に声を掛けたら、興味のある人が必ずいますよね。そういう応援してくれる人が何人も出てきて、その人達に買っていただいています。宅急便でお送りして…沢山できた時は、近くの直売所へ持って行って売ってもらうんです。あと、わたしは自宅で英語塾のようなこともやっています。別に宣伝はしなかったんですけど、地域の中学生や高校生が人づてで来てくれるようになって。
やっぱり無農薬野菜の収入で生計が立てられれば一番いいんでしょうけど、なかなかね。野菜というのは本当に大変ですね。去年もタヌキにやられてしまって、太ったトウモロコシをまるまる食べられたんですよ。知恵比べをしたんですが、完敗しました。タヌキは賢いですよ。夫が1時間に1回巡回して、紐を張ったり、煙幕を焚いたりね。いろいろしましたが、すべて負けてしまいました(笑)。
美味しいやつをよく知ってるんですよね。蝶々なんかも昔は「のどかでいいな」としか思いませんでしたが「青虫の親」となればね。目の色が変わって「コノヤロー」って手で潰せるようになっちゃった。惨忍な怖いおばさんになって、網を持って蝶々を追っかけ回してます(笑)。