大阪新聞コラム『世界笑劇場』 記念すべき連載第1回(1993.10.5)は 「集団出勤!タイしたオカマ」 ペンネーム:槙ひろか |
結局この連載は3年近く続けさせてもらいました。途中から、大変だから週2回に減らしてもらったんですけど、最初は週5回のペースで。現地からEMSで原稿を送るんです。
まず、わたしが原稿用紙にバーっと書いて、それを東京にいる母(また父の転勤で、この頃わたしの両親は東京住まいだったのです)に送ってワープロを打ってもらいました。写真もネガと番号を送って、母が大阪新聞とやり取りをしてくれたので助かりました。郵送料がかかるので記事は20本位(だいたい連載1か月分位)まとめて送りました。
最初のうちは、それまでの3年間のストックがあるので、日記を読み返しながら…その間に起こった出来事を思い出しながら、ワ−っと書き溜めしました。ストックが無くなってからは、毎日毎日のいろんな出来事を800字程度で面白可笑しく書いて、それに写真を付けて送ったんです。
そろそろ出さないとヤバイという時は4〜5日くらい一ケ所に滞在して、夫に話し掛けられても「うるさい!うるさい!」って払い除けてました(笑)。「ちょっと黙ってて!」「勝手にどっか散歩してきて!」もう必死でしたね。連載が始まると穴を開けることができないでしょ。もう、出さなきゃーって。
おかげさまで割と好評だったようで、最後に日本に帰国してからも、しばらくは未だ旅を続けているかのように書いていました。結局、2年と8か月連載が続いたんです。その後も「今度は『英語の失敗談』で書いてくれ…」と言われて、それも3年近く続けさせてもらいました。良い経験でした。
スーダンにて(1994) ちょうどイスラム教のラマダン(断食月)にあたり、日の出から 日の入りまでの間は、食べ物を口にできないことになっていた |
ウガンダで日本人医師と出会い…AMDA(アジア医師連絡協議会)のスタッフだったのですが…当時、ルワンダが内戦の真っただ中で、その支援に来ていたんですね。わたしたちも調子いいものですから、何の気なしに「手伝いますよ」って言ってるうちに意気投合してしまい、「今度、モザンビークでプロジェクトがあるから手伝ってくれないか」ということになった。
通りすがりの旅行者にどれだけの手伝いができるのか不安はありましたが、そう声をかけてくれたのも何かの縁だなと思って、とりあえず履歴書等を送ってみたら、本部からも「是非やってくれ」ということになって…。
モザンビークにて(1994) 孤児院でたくさんの子どもたちに囲まれる |
国連の予算で実施されていましたから、それはそれで国連からは「あーしろ、こーしろ」という指示がくる。とはいえ、現地の人に言ってもなかなか思うようにいかない。板挟みで大変でしたけどね。本当に良い経験ができたと思います。