ペルーにて(1992) プカラレストランの厨房で働く |
南米は、子供の時からの憧れでしたから絶対に行くつもりでした。それで、アジアを回った後にヨーロッパへ飛んで、北アフリカに少し立ち寄ってから、メキシコ→中米→南米へと向かったのです。
ペルーを通過する頃、わたしたちが日本を出発してから3年の歳月が経過していました。ちょうど、わたしの弟が結婚するというので、そこで一時帰国することにしました。そこで頓でもないエピソードに遭遇するんです。本にも書いたんですけど…ペルーを出国する時、空港で「ニセ日本人」と間違われたんです(笑)。
雰囲気が随分違っていたんでしょうね。わたしたちとしても、服をちゃんと買ってバシッと決めて空港に行ったつもりだったんですけど。「お前タチ、日本人じゃないダロ」って言われて参りました。
日本には2か月間の滞在でした。やっぱり南米は強盗が多いので、常にどこか緊張していましたし、日本を離れている時はいい面ばかりが頭に浮かぶんですね。「安全だし、みんな親切だし、食べ物は美味しいし。いいよね…」そう期待して帰ってきたら、みんな無表情で疲れた顔をしていて、色が無いんです。
当時、グレーが流行色だった所為もあるとは思いますが、みんな灰色で同じような格好をしている。「日本って、こんな殺伐とした感じだったっけ」とすごくショックを受けました。親切というか…丁寧だけども、フレンドリーじゃない。まぁ、南米の人がみんなラテン系でかなり陽気という落差もあったのでしょうけど(笑)。
知らない人がすぐに「アミ−ゴ!アミ−ゴ!」って話し掛けてきて、バスを待っていても必ずといっていいほど会話をするし、別れ際にはすでに「チャオ!」と仲良しになってしまっている。これが日本だと、電車で隣の人に話し掛けるだけでもギョッとされたりして…それが、ちょっとショックだったのです。放浪中に、懐かしい日本のイメージが良いふうに膨らんでいたので、逆にショックが大きかったのかも知れません。
ともかく、短い2か月の間…旧交を温めたりして楽しく過ごしました。往復チケットでの一時帰国だったのですが、まっすぐペルーには戻らずにアメリカのデトロイトで途中降機して、そこから友達のいるカナダやアメリカの都市を転々と訪ねながら回りました。
その後、一路ヨーロッパへ。欧州にも語学留学時代の友人がいるし、旅の途中に中南米などで知り合った人はヨーロッパの方が多かった。日本(とりわけ京都なんか)とは勝手が違って(笑)、あちらでは気軽に「おいでよ」って言われて本当に行ってもいいんですよ。「近くに来たら電話をくれ」って言われて、本当に電話して押し掛けて行ったり。ヨーロッパのように宿代の高いところでは、とりあえず転がり込んで泊めてもらってました。
ちょうど、この頃…夫の母とわたしの母、それにわたしの叔母の3人連れが、ヨーロッパで合流してわたしたちと一緒に旅行したんです。「あなたたちが居る時じゃないと、こういう旅行はできない」って言って付いて来たんです。そういうのも十把一絡げに泊めてもらったり。厚かましいハナシですよね(笑)。
「いいよ」って言われて「本当にいいの?」って。「まぁ、料理や家事を手伝うから」って遠慮なく泊めてもらいました。それで親達も喜んで「あんたたち、こんな風に旅行してたら止められないワケね」って。一緒に歩いてもらって、ようやく理解してもらったのです。オランダ・スイス・ドイツを一緒に回ったのかな。
前年には、わたしの母と叔母と一緒にスペイン・ポルトガル・モロッコを回ったんですけどね。そういう家族サービスもして(親孝行になるかしら?)、一緒に旅行をして「まだ、帰らないからね」って宣言しておきました(笑)。
それから、東ヨーロッパを回って、アフリカに入り…結局、アフリカには1年半滞在しました。