その転機というのが、ちょうど大学を出る時に父が失業しましてね。大手企業のサラリーマンやってたんですが…思うところがあって会社を辞めたんです。それまで僕は割と「のほほん」と過ごしていたんですが、大学を出て東京に行く…という段に、これからはもう仕送りも一切ないし完全に自活せないかん…(まぁ、大学を卒業したら当然のことかも知れませんけど)…それまで何となくズルズルと来ていたのが(京都ですから…その気になればいつでも豊中に帰れる…という甘えもあったんだと思いますが)、東京に行ったらそんなにホイホイと大阪に帰って来ることもできないゾ…そういう自覚を迫られたンです。
僕らの世代は、大学入学したのが昭和48年ですから「オイルショック」を学生時代に経験した世代で、卒業する昭和52年なんて…たぶん今より就職難はひどかったと思いますよ。建築関係はまず採用がなかった。それで「どっち道、社会から拒否されるンやったら、自分も社会を拒否してやろう」という反骨の気持ちがちょっとあったと思うんですね。
それで自分独りで何ができるだろうと覚悟を固めて、塾の講師や英語の翻訳や原稿書きや…こまごまといろんなことをやりながら、最終的には「建築の設計というものだけで食っていける40歳くらいの自分」を心に描いて、それに向けて…ただ、どんなに貧乏でも、建築のトレーニングだけは優先しよう…と心に決めたんです。
ヨーロッパの文化的な伝統では、医者と弁護士と建築家というのは3大プロフェッショナル自由業として認められています。僕としては、弁護士は文科系で法学部だし、医者はちょっとようならんかった…それで(建築家という職能が日本の社会で一般的にどれだけ認められているかは知りもしませんでしたけれど)…たまたま大学受験に際して選んだのが建築学科だったワケですが、この業界なら、どこにも就職しなくても生きていく道はあるナ、と。
これ…他の学科だったら、やっぱり大企業に就職するほうがグレードが高いですよね。ところが建築学科の場合は、もう野垂れ死にしそうな小さな小さな事務所で細々とデザインをしていても、世界に対してメッセージを発するチャンスがあるということが次第に分かってきた。それだったら僕は、大きな企業に入って組織の一員となるよりも、個人として生きるという道を…どうせ一遍だけの人生やから試してみたい…自分独りくらいだったら何とでも食えるやろ…そう思ったのです。
不況や何や…とかいって就職が無いと言っても、当時、同期の文科系の連中はそれなりに良い銀行とか商社とかに入ってましたから、東京で僕がひもじい暮らしをしていると、友達でそういうところに入った親しい連中が「メシ奢ったろか」と呼んでくれるわけです。六本木とか連れて行ってもらってね…。
そんなふうに、同級生が不況で大変やとはいうものの、何とか、ちゃんとしたところに就職して、まずまずの社会生活をスタートさせているのに対して、こちらはまず社会を拒否したところから…自分自身を磨くところから始めたというワケで、まぁ〜20代はほとんど「喰うや喰わず」の生活でしたね。