それから…当時は豊中2中が校区だったんで豊中2中。そして北野ですね。2中の頃からバスケットボールを始めてまして、北野でもバスケットボール部に入りました。中学の時は背も低かったし「へたくそ」だったんで…あまり真面目な部員じゃなかったんですが、3年間で背が30センチくらい伸びまして…高校に入ってからは割と真剣にバスケに取り組みましたよ。
ちょうど僕が北野に入ってしばらくした頃、バスケットボール部ではOBたちの間で「梃入れをしよう」という決断が下っったようで、コーチが来て下さるようになったんです。稲本さんとおっしゃる方で、蝶理のアパレルサービスに勤務されてました。実は、そのコーチが一昨日、急に癌で亡くなりましてね。65歳ですか…。卒業後も大変お世話になっているんで、明後日のお通夜、告別式に東京まで行くんですけど…ともかくこの稲本さんをヘッドコーチとして、OBの方たちのバックアップ体制がすごくて…ひたすらバスケットボールをやらざるを得なかった。
そのおかげで…それこそ中学の時のバスケットボールと言えば、何というか…無意識ながら半強制的な義務感のようなものに支配されて練習していたような気がしますが、高校で初めて「自覚」して自ら求めて練習できるようになって…。自分で言うのも何ですが、ずいぶん好プレーヤーに成長したと思いますし、北野もその頃ずいぶん強くなったと思います。
そういうわけで基本的にはひたすらバスケットをやっていたんですが、もうひとつ、美術部の部長というのもやってました。
当時、美術の先生は小林陸一郎という方で…現在は精華大の先生だそうで、後から「凄いアーティストやった」ということを知ったんですけど…ともかく、1年の芸術科目で美術を選択したものですから、この小林先生に習うことになった。
その頃、美術部に僕の中学の時の同級生が2人いまして…文化部の中でも存亡の危機に立たされていたんですね。それで僕にも参加してくれ…ということで美術部の活動にも参画していたんです。
それで例えば、体育祭とか文化祭とか…そういったいろんな催しのタテカンを描いたり、講演会のパンフの表紙を作ったり。先日、僕が表紙を描いた「手塚治虫さんが講演に来られた時の文化祭のパンフレット」がひょっこり出てきて「あぁ、そうやったな」と思い出したんですが…そんなことをやってたように思います。
もともと絵を描くことが好きだったので…だからこそ建築へ行ったんですが…でも、やっぱりメインはバスケットボールでしたね。朝から晩までバスケに明け暮れる毎日で…その意味では、なかなか充実した高校生活(バスケットボール生活?)を送れたなと思っています。