日産自動車テクニカルセンター正面玄関前 にはためく社旗と国旗 |
中味をみれば、当然業界だからこれは言われなくても「あ、日産か」と。パトリック・ルケマン…ルノーのデザイン部長で有名な人なんだけど、彼が裏で動いてる、これはルノーが仕組んでるなと、私には何となく読めたんですね。「電話は家にする」っていうから番号を教えて、家にかかってきた電話で話して。そうしたら1週間ぐらいしてからかな。「会って話がしたいので、土曜日にちょっとニューヨークまで来てくれないか」というわけです。
別に向うに行くとか行かないとか決めたわけじゃないし、だめだったら断ればいいし。向こうだってね、何人とも交渉してるわけでしょ。飛行機代はビジネスクラスで出してくれるわけだし、久しぶりにニューヨークにジャズでも聴きに行くか…とまあ、半分そんな感じで金曜休んで2泊3日で行って来たんです。もちろん会社には黙って(笑)。
「なぜ、日本の車のデザインに問題があるか」とか、「だから日本の車のデザインがこのレベルでとまってるんだ」というような話をルケマンと話して、彼も思ってることが全く同じでね。結構、お互いに気があったんですよ。こういう事って、僕が疑問に感じてる日本のデザイン界の問題点を打破するいいきっかけになるかも知れないナと、帰る頃にはそういう気がしてた。かなり。
「また連絡しますから、今度は日産の本社へ行ってカルロス・ゴーンさんと会ってください」って言うからね。「え?日産の本社へ直接行くの。嫌だなぁ」と思いつつも、会ってみるとね。カルロス・ゴーン…ああいう顔してるけど、なかなか愛嬌のある人で。デザインに対しても考え方がクリアなんです。「デザインは経営的に非常に大事なものだから、当然デザインのポジションは高い。俺はデザインの最終決定をする」社長自らやる、というわけ。
日本のデザインは社長が責任を取らないというのが、ボクはかねてから気に入らなかったんですよ。取るようで取らないんです、日本の車の会社っていうのはね。日本が良くないのは「ボトムアップというものの限界」なんですよ。ボトムアップではそのレベルで判断してしまうから、ドラスティックなことは絶対できないんです。お金のかけ方、方針にしてもね。
ゴーンさんはそういうことを言ってたから、いま僕が考えてる「あるべき姿」に非常に近いなぁという感じが、その時すでにしてて…まぁ「来い」と言われたら行ってもいいかな、と思いましたよ。
ところが、この辺からむずかしい。「で、どれぐらいでお前は前の会社を辞められるんだ?」と。これ'99年8月の半ばぐらいなんだけどね。例の『ニッサンリバイバル・プラン』で…10月15日にはお前の名前を外に発表するから、それまでにOKにしといてくれっていうわけです。そんな、すぐ辞められるかわからん。俺は今まだ、いすゞのデザイン部長やってんだ。そんな簡単にはいかない、と。
「それはdifficult(困難)か?impossible(不可能)か?」というから「very difficultだけど、impossibleではない」と答えて(笑)。「わかった、また連絡するよ」ということで別れて…そしたらその夜、人事担当の取締役から早速電話がかかってきて「えー、日産に来てくれませんか。ただし条件は10月15日までに今の会社を辞めていただくことです」とか言われて。
そんな、すぐ辞められるわけないじゃないですか。2ヶ月弱で。「それは確約できません。ちょっと時間ください」と。それで急いで海外にいるマネージャーを呼び戻して、代わりに若いやつを出したり、いろいろやりくりしてね。自分の後継者を決めるだとか、今やってるプロジェクトちゃんと決着つけるとか。その頃、スタジオを外に1個新しく立ち上げたとか、GMとの共同開発車のモデルチェンジとかが一気に重なって、今までいすゞでこなしていた仕事が倍くらい濃縮されてて、むちゃくちゃ忙しかったんです。
いすゞってGMの資本が最近では49%なんですよ。にもかかわらず、GMは経営に関与しないんですよ。取締会だって日本語でやってる。逆に言うと49%の外資なんだけど、人事面とか厚生面含めて、まるまる日本の会社なんです。そういうところは全然、外資化されてなくてね。ある意味ではそういうところに私は限界を感じていたわけですよ。25年間それでやってきてるわけだからね、もう変わらないですよ。
たとえばフォードが入ったことでマツダががらっと変わったでしょ。日産も今回でむちゃくちゃ変わってる。変わるときは一気に変わらないと変わらないですよ。25年もずっとやってて、変わってない会社が突然変わるわけないですよね。いすゞはそういうドラスティックな変化ってありえなかった。そういう意味での変革は。あとはどうやって少しずつね、自分の力で変えていくかが課題だと思ってました。
日本の会社って、辞めるっていうことをすごくネガティブに捉えて、上司の責任にするんですよ。「何で、こいつをちゃんと評価して、うまく使ってなかったんだ。辞めさせたのはお前のマイナスになるぞ」そういうのが、ずっと日本の伝統的な評価なんですね。
その時はまだどこへ行くか言えなかった。車のメーカーである、外資系である、このふたつだけ。ま、外資系って半分ほんとなんですけど。「何考えてんだ?!」って罵倒されるんじゃないかなって思って、こわごわ言ったんだけど。やっぱり「辞めさせるわけにはいかん」っていうのが普通じゃない。
それが社長にも話してくれて「残念だけど君が決めたことだからいいよ」って。「あれ?」っていう感じで正直、拍子抜けした。だって会社にマイナスなのはわかりきってるものね。少なくとも、アメリカにいたのをアメリカ側に打撃を与えてまで無理矢理1年で引き戻して部長にしたのに、またそれが辞めるわけだから、間違いなく大変なんだけど、なぜか皆さんこんなにいい人っていうか度量の広い人がいる会社だなあと思って、感激しました。
その時も思った。日本の社会って…実を言うと、思ってるより変化してたんだね。われわれが思いこんでるほど古い体質でない人が結構いっぱいいるんです。むしろ固定的に考え過ぎてんのかな。そういう気がしました。
ちゃんと書類書いて、退職金もきちっといただいて、辞めることが出来たんです。
10月18日。リバイバル・プラン発表の初日に、ここ日産に来て突然挨拶させられたんです。デザイン本部のでかいモデルの部屋で、台の上に乗せられて。私の直属の上司のフランス人の副社長が英語でやって、これが日本語に通訳されるんだけど。「この人が今度から、あなたたちのボスです」って紹介されるわけ。それで「中村さん、挨拶してくれ」って。
日産のデザインの人たちには事前に何も伝えられてない。そういう人たちが400人ぐらいいるわけですよ。「こんなにいるの?これは多いなぁ」と思って。世界中で言うと600人近くいるんです。
お互いのデザインに対する価値観みたいなのって、直接コミニュケーション取るのはすごく大事なんですよね。メッセージを紙に書いても、会議を通してやってもなかなか伝わらない。顔も覚えられない、名前ももちろんのこと、顔も知らない人がいっぱいいるもの。これは大変だなあと、最初いちばん思いましたね。
デザインの中の権限というのは一応すべて持たされてるわけ。僕の上が、ルノーから来たペラタ副社長、その上がゴーンさんだからね。要するに僕の上司は日本人がいないんですよ。だからある意味ではすごくやりやすい。西洋人の上司だからドライにやれる。もちろん彼らの了解をとるということはあるけれど、基本的には任せてもらってます。
かねてより思っていた方向に向かってますね。