コソボ州全体で人口は200万人であったと言われています。大阪市の人口程度でしょうか。州都のプリスチナが約50万人、ペア市は約20万人の人口であったとのことです。現在の実際の人口は把握されていないようですが、避難していた人達がどんどん帰って来ている時ですので10万人くらいはいるのかなという話しでした。街の治安状況は思っていたより良くて、日中は一人で出歩いても危険は感じませんでした。ただ、夜になると、時折機銃の発射音と地雷の爆発音が聞こえます。地雷処理による爆発音とのことでした。一説にはコソボ全体で数十万発の地雷があると言われており、不用意に草地や道路以外の所に踏み込むのは危険だと注意されました。また、地雷処理部隊の発行する地雷処理の地図が何日かおきにに発行され、毎週の連絡会(UNHCRで開かれる)で配布されていました。
ハーモニカ外交(?!)
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地雷に対する警告のポスターも至る所に貼られていました。このような状況ですので、街中とはいえ夜間の一人歩きはさすがに怖さを感じました。現地の人達は結構夜遅くまで飲食店で飲み食いをし、パーテイーなども開かれていました。NIKIの家の直ぐ裏手に託児所兼幼稚園があり、朝早くから子供たちが親に連れられて通ってきていました。子供たちは非常に人懐っこく、礼儀正しい子供たちで、言葉は通じませんが、ハーモニカを吹いてやると大喜びで、すぐ、仲良しになりました。
ペアの街の中心部に、KFORイタリア軍部隊の本部があり、ホテルを接収して使用されていました。周囲は厳重に鉄条網が張り巡らされ、常に警戒する兵士が機銃を構えており、戦車も何台か置かれて警戒をしています。この中心部から商店街とでも言える大きな通りが二本あり、結構長い商店街で、道路も広く、車や馬車の交通量も多い通りを形成しています。この通りの車と人の交通量は日増しに多くなり、周囲の商店の修理、新規開店もどんどん増えておりました。10日間での変化に驚くとともに復興へのエネルギーを感じさせられました。
この大通り沿いの建物は大半が破壊されており、破壊をまぬがれたか改修された店が散在しています。歩道には屋台の小さい店が建ち並び、こまごました商品を並べて商いをしています。大通りから斜めに入る通りはコソボ銀座とでも言うべき高級商店街だったとのことですが、建物は完全に破壊され、がれきの山となっていました。そのがれきの前の通りに所狭しと露天商が店を出し、衣類、電気製品、CD、家庭用品、工具、土産物となんでも売っておりました。土曜日になるとお祭りの露店街を思わせるほどの人が集まり大変賑わいます。大通りには、スーパーのような店も一軒破壊をまぬがれたビルにありましたが、ここは品薄のようでした。電気製品では、日本製のものが数多く目に付きました。
雑貨店には案外…新鮮な果物や
野菜などが出回っていた
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大通り沿いの店には、日本の昔の雑貨屋さんのような食料品、くだもの、やさい、飲み物などを並べた店が多く、すいか、トマトをはじめ新鮮なやさいは多く出回っています。特に、トマトは小ぶりですが昔のトマトを思い起こす甘さのある味で、日本の今のトマトよりおいしく感じました。また、カフェテラス付きの食堂も結構多く、仕事が無いこともあるのでしょうか朝から晩まで老若男女がたむろし、トルココーヒーを飲んだり、ビールを飲んだりしているのが目に付きました。
物価は非常に安く、ビール一本100円たらず。ヨーロッパのビールもコソボ産のビールもあり結構おいしく飲めました。ワイン一本210円、パン、やさいなども日本の十分の一から五分の一といったところでした。
通貨はデイナールですが、ドルもマルクも通用しました。100マルク紙幣を出して少額紙幣に替えてもらうのに苦労しましたが、わたしはマルクで買い物をしました。銀行、郵便局はまだ開いておらず、電話も市内のみ、もちろんカードは使えませんでした。
通りを歩いているひとの数は日増しに多くなりましたが、清潔な服装をしており、特に若い娘さんたちは本当にびっくりするほどの美人が多く、色白で、彫りが深く、スタイルも抜群、しばしば見とれる程でした。また、物乞いする人は子供も含めて一人もなく、買い物をしても釣り銭は細かく正確に返してくれます。経済的に苦しくない筈はないと思いますが、アルバニア人の誇りを感じさせられました。
瓦礫が目につくペアの街
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中心街の家は少しづづ修理されているのが見られましたが、一歩裏通りを歩くと、瓦礫が片づけられていない壊れたままの家並みが目に付き、どぶ川も匂い、川にはごみが浮いているのが目立ちます。壊れた建物にも人が出入りし、多分壊れていない部屋で多くの人が住んでいるのでしょう。
以上のような街の様子ですが、80%近い建物が破壊されたままであり、真冬にはー20度にもなり、50センチ以上の積雪があるという所ですので、冬に向けて建物の補修、仮設住宅の整備が急がれると思いますが、果たして間に合うかどうかこの冬を乗り切るのがペアの人々、支援団体にとって最大の課題だと思います。神戸から送られる400戸の仮設住宅もわたしの帰国までには現地に到着していませんでした。この仮設住宅の資材は船便でギリシャに到着し、陸路トラック部隊を編制してマケドニア経由でコソボへ運ばれ、10月中に組みたてられると聞きました。この仕事を請け負ったのはPEACE WINDS JAPANという土木・建築専門の日本のNGOですが、二つの国境を越えて資材を運ぶのが大変とのこと。特に、マケドニアの人達はアルバニア人が嫌いで輸送トラック隊が妨害される可能性もあるとのことで心配していました。事実、最近マケドニア経由で輸送される医療機器などの物資も突然高い関税を掛けられ困っているという話しも聞きました。人道的支援もスムースに行えないというバルカン諸国の複雑さと、後進性を感じさせられる話しです。