特殊潜行艇「蛟竜」(甲標的丁型) |
ところが昭和19年の12月27日に第三海上護衛隊に赴任して、わずか2ケ月の勤務で翌2月に突然「海軍潜水学校付ヲ命ズ」という転勤命令が届いた。これが不思議でね…腑に落ちないというか。既に実戦に出て、役に立って働いているというのに、またも教育機関に逆戻りとは…「教育のしなおし」ということでしょ。「海軍潜水学校教官ヲ命ズ」なら分かるけどもね(笑)。「早く来て講習を受けなさい」ということなんだから…。
ところがね…行ってみるとこれがまた黒山の人だかりで。もうすでに乗船できる船は全部沈められて無かったんですよ。結局ボクも巡洋艦「高尾」には乗れず終いで特設掃海艇「第三みさご丸」だったんだから(笑)。潜水学校というのは本来なら潜水艦乗りを養成する学校ですよ。ところがもうその頃の日本では潜水艦そのものが30隻も無かったし、そのうち20隻は漏水甚だしく実用にはならない体たらくだった。だから、そのころ最も力を入れていたのは専ら特殊潜行艇と人間魚雷だったのです。
飛行機の連中もそうだった。本来ならゼロ戦に乗って敵機グラマンと大空でやりあうはずだったし、艦上攻撃機で敵艦めがけて魚雷を投下する…という華々しい活躍を夢見て志願したはずだった。ところが性能比においても、乗員の訓練度の点においても機体の数においても…日本は何歩もアメリカに差をつけられていたし、そればかりか日本の飛行機は行っても行っても、行ったきりで帰ってこない。どうせ帰らないのなら爆弾を抱いてわが身もろとも敵艦に突っ込もうではないか、というのが例の神風特別攻撃隊です。
われわれはその水中版(笑)。水中特攻隊には特殊潜行艇「蛟竜」と人間魚雷「回天」、それに新設計の「海龍」の三種類があって、それぞれを「甲標的」とか「マルロク金物」と呼んでいた。ほかに水上特攻隊というのもあって、モーターボートの先っちょに爆薬を附けて高速で敵艦に突っ込む「震洋」(マルヨン艇)とか、爆薬の詰まったドラム缶ごと海底に沈んでおき頭上に敵艦がさしかかったらわが身もろとも爆破するという「伏竜」隊などもあった。今からすると、きわめて幼稚な「最終兵器」でしたね(笑)。
ゼロ戦もそうでしたが、要素々々としては日本の科学技術もそんなに捨てたものではなかったのです。機密保持のために「マルロク金物」と呼ばれていた「回天」も、元は九三式酸素魚雷という優れた日本製兵器でした。通常、他の国の魚雷は圧縮空気で石油を燃やしてスクリューを動かしていたため、走った後にプクプクと水泡が発生して、魚雷の来た道筋が一目瞭然なんですね。これを雷跡といいますが…日本の酸素魚雷は空気の代わりに酸素と水素の混合気体を使っていましたから、反応しても水(H2O)しか生成されないんです。つまり雷跡が出ない。
この九三式酸素魚雷の内部を真ん中で二つに仕切って、真ん中に人間が乗って操縦する場所を作り、先端に1.6tの炸薬を詰めた(これは相当に多い量で、どんな船でも当たったら轟沈しますよ…)のが「回天」でした。これを潜水艦に積んで、敵の近くまで行ってから発射するわけです。当時は魚雷には自動追尾装置なんてなかったですから、事前に察知されて、うまく換わされたらそれでお終いでしたが、この「回天」は…何しろ人間が乗って操縦してるわけですから…絶対に当たります。恐ろしい兵器ですよ、敵にとってはね(笑)。
平和な今でこそ、人道的なヒューマニズムの問題としてしか語られませんが、当時、戦争の真っ直中であることを考えれば、勝敗が生死に直結していたわけですからね。ある意味…大変優れた兵器でもあったワケです。ボクらは、その乗員(艇長)としての「最期の」教育を2ケ月間に渡って受けたわけです。それが昭和20年の3〜4月のことでした。
対潜学校ですでに航海術を習っていたボクは、船を動かすことは得意中の得意だったけど、ほかの配置の人…対空砲術専門の砲術学校出身の人や、陸戦隊専門の陸戦出身の人など…こういう人たちが余っていたわけです。乗る船が無いからね。それを全部、潜水学校に集めてわずか2ケ月で一人前の艇長としての訓練を受けさせたわけ。思えば可哀相やったね。その後、第一特別基地隊「Q基地」へ配属(大浦突撃隊大迫支隊というのが正式な名前だったけど…暗号のためにそういう隠語で呼びあってた)。そこで、自分が乗る潜航艇の出来上がるのを、今か今かと待っていたんです。
建造中の「蛟竜」(昭和20年秋、米軍撮影) 終戦時、建造途中の「蛟竜」は約500隻にも のぼっていた。材料準備中のものも含めると さらに膨大な数に達したという。 |