海軍中尉時代 |
陸軍か海軍か志望を書くところがあって…ボクは「海軍」と書いた。陸軍は嫌いでね。当時の軍国歌謡に「父よ、あなたは強かった。兜も焦がす炎熱を、敵の屍と共に寝て、泥水啜り草を噛み、荒れた山河を幾千里…よくこそ勝ってくださった。夫よ、あなたは強かった。骨まで凍る酷寒を、背もとどかぬクリークに、3日も浸かっていたとやら、10日も食べずに居たとやら…よくこそ勝ってくださった」そういうフレーズがありましてね。「おい、どうする。陸軍へ行ったら10日も食べれんらしいぞ。背もとどかん溜め池に3日も漬かり放しやて。そんなん、かなわんなァ」と(笑)。
その点、海軍なら軍艦勤務ですから…ベッドと食料は必ずついてます。それに軍艦同士の艦隊戦というのは…もちろん大砲がどんどん飛び交う激しいものですけど、実際の接近戦というのは60分もないんです。だから24時間連続の交戦というのは基本的にありえない。一波、二波と間断なく続く飛行機からの攻撃は別ですが…。そのうち弾丸がなくなり、食料がなくなり、燃料もなくなったら…また夫々の基地へ帰らなあかん。その行きも帰りも…ベッドと食事は保証されてるわけでしょ。「こら断然、海軍のほうがええナ」と(笑)。
そういう単純な理由でした。結局、ありがたいことに海軍への志望がかないまして、ボクは呉の大竹海兵団へ配属されました。最初の2ヶ月間は二等水兵から始めて、その後、士官を養成する学校の試験を受けて予備学生になるんです。
当時、新兵を養成する海兵団は呉のほかに横須賀、佐世保、舞鶴にありました。合計すると2万人ぐらいの兵隊がいて、とても兵舎に入りきらないので各々の場所に第二海兵団が作られました。横須賀の第二海兵団は地名をとって武山海兵団と呼ばれ、呉が大竹海平団、佐世保が相之浦海兵団。舞鶴だけはそのまま舞鶴第二海兵団でしたね。そこでみんな新兵教育を受けたわけです。
軍容査閲の様子(S19年。武山学生隊のもの) |
「水商売とデキ物は大きくなったら必ず潰れる」とはよく言ったもので、あんまり手を広げ過ぎるのは考えものでね。調子にのって攻めて行くのはいいけども、この辺でいったんやめて次の戦力をたくわえる…という見極めこそが名将の才能です。ところが日本軍は連戦連勝をいいことにソロモン諸島まで攻め込んでしまった。当然、そこへ武器・弾薬・食料を継続的に補給しないといけないでしょ。どうも、そういうことを当時考えてなかったんですね。
補給は商船で送りこむわけですけど、当然のことながら商船隊そのものも少なかった。当時の航洋船舶の保有量はイギリスが6,000万t、アメリカが3,000万tに対して日本は1,500万tしかなかった。そのうえに、それが途中でボンボンと敵潜水艦にやられるわけです。補給戦に負け続けたわけです。そうなると前線には食料や弾薬が届かないわけですから、肉体的にも精神的にも飢えてしまって…有名な「ガダルカナルの悲劇」とか「アッツの玉砕」とか…そうした悲惨なことが次々起こってきて、ようやく「これはやっぱり補給は大事や」ということに気がつき始めたわけです。
それで、補給船団を守る護衛艦艇を急造することになったのが、なんと昭和18年のことだったわけです。軍艦には戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、掃海艇、水雷艇というような種類があったのですが、護衛するための船ということで新しく海防艦というものをどんどん作りました。
もともと海軍兵学校の将校たちは職業軍人ですから、みんな第一線の戦艦や航空母艦などに乗船します。とても船団護衛にまわす兵隊の数が足らない…ということで、商船学校出の予備役士官を根こそぎ集めて護衛艦の艦長に据え、その下で働く将校として…ボクら新兵で入った士官たちが当てがわれたわけです。