われら六稜人【第28回】女性公務員の歩んできた道
     
    大学1年生(左側)
    2号線
    大学へむけて−女性としての生き方を考える−



      大学は結局、阪大の法学部に行きました。法学部を選んだ理由のひとつは、小さいときから母親がちょっと住民運動なんかにかかわっていたので、その関係で弁護士という存在が、わりと身近にあったことですね。それに、私たちの時代は、1960年代半ばなんですが、日本の高度成長が軌道に乗って大きく発展しようという時代だったでしょ。でも、ちょうど過渡期というか、女性はまだあまり大学に行かなかったんですね。男性でも、勉強ができても工業高校とかへ行くと言うことも多かったんですね。

      それに、私たちのちょっと上の世代の北野でも、進学する女子はうんと少なかったんです。私らの時でも、進学せずに就職する女子が何十人もいましたね。でも、ようやく女子大生が増えて目立つようになったら、あの女子大生亡国論みたいな話が流行したのよ。女が文学部に花嫁修業にいっているとか、目先の受験勉強ばかりできる女が、あたら将来を展望できる男を受験で蹴落として大学にはいっているとか、そんな話がイヤだったもんで。それもあって、文学部でなく法学部を選びました。

      同期では私を含めて100人くらい阪大に入りました。私の大学生活の印象では、阪大と言うところはもう一つ学術的に「さあやるぞ」と言う雰囲気が感じられなかったんです。私としては、まあそこそこ勉強してというところかな(笑)。もう一つ、大学生活で変わったところでは、大阪で一人暮らしを始めたことです。高校3年のおわりのちょうど大学入試の直前に、4月から親が東京に移ることがわかったんですね。
      それで大学時代は、大阪で全くの一人暮らしでした。でも、私は阪大を家から通えるということを前提に選んでいたので、仕送りしてもらうのがすごく気分的に・・・。それから、親が、卒業後もしばらく面倒見るから、せっかく法学部に行ったんだから司法試験を受けてみないかって、言ってくれたんです。でも、卒業してまで親に面倒を見てもらうのも重荷だったし、勉強するのも面倒で早く自立して生活したいと言う気持ちがありましたね。

       
      【第8回参議院選挙(S43.7.7)】石原慎太郎・青島幸男・横山ノックなどタレント候補と呼ばれた人たちが大量票を獲得して当選した。
      --写真は読売新聞社編「目で見る昭和全史」より--


    Update : Jan.23,2000