わたしは、六稜が誇る巨匠・佐伯祐三先輩と同じ中津国民学校に通っていました。集団疎開から帰ると自宅は戦災で全焼しておりまして、守口市に住むことになりました。そこから戦禍を逃れた聖母女学院という中学校に進んだンです。聖母は校舎が白壁の洋風建築で、廊下はワインレッド。瀟酒なアーチがあって、フランス人の設計による、それはそれはきれいな学校でした。
そこから北野でしょ。もう、晴天の霹靂というか…初めは「なんて汚い学校なんだろう」という印象だけでした。父が「どうしても北野に行け」というので寄留して通ってたんですが…「学区外からの通学生は退学になる」という噂を耳にしたので、一家をあげて中津に戻りました。
でも…北野高校では「自由な校風」というものを感じましたね。
聖母が本当に厳格な学校でしたから…髪の括り方も学年によって決められていましたし、夏でも肘から上は見せない制服で、体育の服装も「どう動いても肌が見えない」ように厳しい制限がありましたよ。校内は男子禁制で、お父さんでも運動会に来られない決まりでしたから…余計「北野はなんと自由な世界か」と感じたのでしょうね。まさに「新世界」でした。
学生の男女比は3:2くらいじゃなかったでしょうか。何しろ、私はそれまで男子生徒というものをよく知りませんでしたが、皆さん学生であるにも関わらず「フェミニスト」が多かったように思います。戦後スグでしたので…それまでの反動で、とくに女性が大切にされていたのかも知れません。
当時「民主主義」という科目がありました。北原富雄先生が担当されていて、『民主主義』という教科書もあったのですが、北原先生はそれをまったく使わずに、いろいろな話をしてくださいました。「はァー、そんなことがあるのか」と、まさに目からウロコ状態で、スポンジが水を吸うように吸収したものです。北原先生にはとても影響を受けました。
この頃の修学旅行は女生徒だけが行ってました。ちょうど阿蘇山が噴火して、わたしたちの直前に桜塚高校の人達が被害に遭って大変な時でしたが、国鉄で一駅離れた内牧温泉という安全なルートから外輪山に登ったのを覚えています。
別府の観海寺温泉では、最高級のホテルがわたしたちの宿でした。先生方のお話ではオーナーが北野高校の関係者のようでした。立派な庭の中のあちこちに戸建ての客室があり、とても風情のあるたたずまいでした。
いくつもの控えの間のついた広い部屋に6人ずつ床をとりました。消灯時間を過ぎても楽しくて備えつけのロッキングチェアに乗って遊んでいましたら先生に見つかってしまい「早蕨の間、静かにせんか!」と叱られました。みんな一斉にお布団にもぐり込みましたよ。でも、先生の足音が遠ざかってから、探検をしよう…と、寝静まったホテルの内部をくまなく見て歩きました。足音をさせないように、みんなスリッパを手に持って、素足で歩きました。
とにかく楽しかったですね。好奇心だけは昔から人一倍強かったんです。探検のアイディアを出したのは勿論わたしです。友人に罪はありません(笑)。
そういえば後年、NHKの番組にレギュラー出演していた時も、ディレクターさんと一緒に取材ロケに行くんですが、誰も気がつかないのに、わたしが一番に発見してしまう…ということがよくありました。どうも好奇心は子供の頃から旺盛だったようです。