1959年(昭和34年)早稲田の演劇科に入ったといっても、劇団に入ったようなもんです。当時の早稲田は自由舞台と劇研で、私は自由舞台に。上級生に加藤剛さんがいて、当時から素敵な人でしたね。
60年安保の前年で、自由舞台に入ってもすぐデモにいこうということになって、連れ出されました。60年のあの6月15日には私も国会に入りましたよ。捕まりませんでしたけどね。大学の後半は、東大の劇研との交流がさかんで、ほとんどそこへ通っていました。当時、米倉斉加年さんが「青芸(劇団青年芸術劇場)」という劇団を主宰していて、東大劇研が舞台公演に参加、協力したことがあります。
私、大学1年のときに演劇仲間の学生と結婚して、大学4年のときに出産してます。63年に卒業して、それからは夫の実家の家業を切り盛りする生活になりましたが、夫は演劇ばかりで家庭は顧みず、28歳のときに子を残して家を出る形になりました。その時に米倉夫妻にお世話になり、斉加年さんに紹介していただいて、民芸映画社で映画のさまざまな記録を担当するスクリプターの見習いをすることになりました。
スクリプターになって1年半(29歳)
テレビドラマ『黒部の太陽』(監督:鈴木清順) 撮影完了を祝って
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その後、国際放映などをふくめスクリプター生活18年。とくにテレビ作品の『黒部の太陽』の鈴木清順監督が、人間的にも演出面でも印象に残っています。鈴木監督の撮影初日、私は前作品のフィルム編集作業(ミックスといいます)から現場へ直行しました。すると「どっかで寝てなさい」とやさしく声をかけてくださった。もちろん、寝たりはしませんでしたよ。監督の演技指導に興味津々でしたから、映画作りにずいぶん影響を受けたと思います。スクリプターといっても、当時はまだ見習いでしたから、記録だけでなく、助監督のような仕事も、掃除からお茶の準備まで製作助手のような仕事もするんです。
スクリプター12年(40歳位)
教育映画で原ひさ子さん(当時71歳位)と
以後親交を結ぶ
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そんな私が自分で映画を作ろうと思ったのは1985年で、企画制作パオを設立しました。後に有限会社としました。このころ、アイドルといわれた少女タレントの飛び降り自殺、東京・中野の中学生がいじめにあって「生きジゴク」と言い残しての自殺、テレクラをきっかけにした少女買う買春……胸の痛む事件が続きました。私は再婚して36歳で男の子をもうけていましたが、この子が小学校でいろいろつらい目にあっていました。
こういうときこそ命の重さを伝えたい、性とは生であり、共生であることを訴えたい、そんな思いから86年に『子どもたちへ…いのちと愛のメッセージ』という映画を作りました。その後『若人よ』『地球っ子』『わたしがSuKi』と続いて『老親 ろうしん』が5作目です。
監督4作目『わたしがSuKi』撮影風景、狛江にて。57歳
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