その日、5歳の私は具合が悪く、囲炉裏のところでごろんとしていました。縁側が遠くに見える。そしたらぴかっと光って爆風で障子がばあーっと倒れるわけね、何ごとかなと思った。おばが私を背負って防空ごうに連れてってくれました。そのとき、空にいろんなものが舞い上がってましたね。広島の山の上ですけど、木や枝にさまざまなものがひっかかっていました。爆心地から25キロです。夕方、ほとぼりがさめて家へ戻ってくるとき、洗濯ものが干してあって、白いシーツやブラウスに黒い線がおちているわけよ。母が「あら、黒い雨が降ってんだね」っていいました。というわけで私も母も被爆者手帳は持っています。
父は海軍だからその時はどこにいたかわかりません。南方で船が轟沈されたんじゃないかということで、しばらく消息がわからず、戦死じゃないかといわれていたんです。それが海を泳いで泳いで助かった。そのときの記念の時計だ、そんな時でも動いていたんだというので私にくれました。長いこと持っていましたよ。
父は復員したものの、広島に戻ってこなかったんです。たまに家にきたときに、母に離婚してくれといったのが小学校3年の2月。母が泣いているので、「私のためにお父さんと別れることができないというなら、心配いらないよ」といったんです。母は思いきって実家の呉に引き上げた。4月から呉の学校へいったけれど、母も親のところでずっと生きていくわけにはいかないしということで、やむなく大阪の父のところに同居したということなんです。
大阪へ移ったのは1950年、4年生の1学期、ひと月ぐらい過ぎてたんです。十三の東、木川小学校です。転校生だというので挨拶をしました。ちょうど学級委員を決める日だったので、転校生というのが印象深かったのか学級委員になっちゃったんです。転校生というのでちやほやされるとこあるでしょ。昔ってそんなもんなんだよね、それまでずっと学級委員やってた女の子をずいぶん傷つけたんだなあってわかったのは、ずっと後になってでした。