松宮さんの話で印象深かったのがね…戦後まもなく、食糧事情の悪いときだよな…「冬の鴨は動きが鈍いので、先輩が捕まえてきてくれて、それを皆で食べたンだ」とか。あとで詳しく調べたら「あれは蛙ではなかったのか」とか…。はっはっは。
とにかく関学やら早稲田、慶応などの諸先輩が、夏休みだとか言っては練習を見に来てくれるんだけど、大学によって先輩の言うことが全部が全部違うんだよな。その経験があったんで俺が監督をするようになってからは、現役の生徒にそのようなことのないように配慮したけどね。
俺は北野を卒業して2年浪人をした後、京都府立医大に入った。当時はラグビー部が無くてね。サッカー部に入ってたんだけど…ちょうど大学の中でも、洛北高校卒業の内科の先生あたりがOBを頼りにラグビー部を再建しようと動き出していて…結局、1年生だけで13人が集まった。在籍数が80人だから、ちょっとした数ではあったんだけどね。解剖学の教授が部長になって「自分の単位については全員通してやるから」と言われて…。でも、俺だけが落とされた。「お前まで通したら勘ぐられる」って。
大学卒業後も第二外科というセクションに修行を兼ねてしばらく残ってた。それで大学のOB戦なんかには出たりしてたんだけど、親父が急逝してしまって…それで呼び戻されて、あとを継ぐことになった。ちょうどその頃、野々村先生から「北野のラグビー部を見てくれないか」と相談されて…。同じ面倒を見るなら、しっかり見たいと思って、本業の診療を午前2時間、午後2時間と少なめにして…残りの時間を北野のラグビー部に充てたわけです。昭和52年だったかな。
↑淀川河川敷での練習風景