見事な格子縞を見せる カセグレン系望遠鏡の主鏡 |
今でも、私のところには門を叩いてくる人がいますが、それは「ものづくり」において精度を追求する姿勢が今でも私に残っているからだと思います。
北野時代に作った反射鏡は、1枚の主鏡に4ヶ月、5ヶ月という月日がかけられています。さらに少年の根性(魂)も籠っています。これを経営的にこなすならば、正味1週間で仕上げないと成り立たない。だけど、そんな1週間程度で「いいもの」ができる筈ないですよ。
非球面を作る…例えばY=Xの二乗であろうが、三乗であろうが…要するに「形さえできれば出荷しちゃえ」ということになりがちなんです。それでも望遠鏡屋には「望遠鏡屋の使命」があるわけですから…それなりの価格(廉価さ?)は維持する中で、広範な普及に貢献もし、かつ商売としても成り立たないと継続できませんからね。
「ものづくり」と「望遠鏡屋商売」とは本来別のものなんです。モノの精度を高くしようとすれば、どうしても金儲け以外の尺度が必要になります。それは「好きだから」ということに他ならない。
その仕事が好きだから、ものづくりが好きだから…ということ以外に理由は考えられませんよ。それが苦しみであったり、生活の基であったりすると、なかなかそこから先には行けないと思います。
とても愛着のある思い出の作品でしたから、このまま朽ちさせて廃品にするのも惜しかったですし、この望遠鏡と自分との「運命の絆」のようなものを感じて、私は何とかしてこれを現代に再生できないかと考えました。もちろん、家族のことや老後のことなど…今後の身の振り方も考えましたよ。ただ、中途半端な選択だけはしたくなかったのです。自分が棺桶に片足を入れた時に「あの時、あれをしておけば良かった…」と後悔する人生だけは送りたくなかった。
妻の目は平凡なサラリーマンの人生を望んでいるようでしたが、最終的には「あなたの好きな道を選んで下さい」という彼女の一言で心が動きました。結果、もう一度この青春の遺物、残滓である望遠鏡と、自分が人生の時を共にすることを決意したのです。当然、その時すでに…近い将来、勤務先の大阪府を退職することも決意の中に含まれていたように思います。こうして、再び人生は大きく動き出しました。
それで、まず5年がかりで鏡筒の上半分を用いた「IK-4」が完成。マイコンを内蔵しビデオ装置と連動して、一瞬にして見たい星をモニター画面に大写しにできるハイテク望遠鏡へと生まれ変わったのです。これは昭和54年の夏に、能勢町の大阪府青少年野外活動センターの天体観測所へ設置されました。
こうして、柴島中学で17年間の勤めを果した「IK-1」は2つの望遠鏡へと姿を変え、今も多くの若者たちに利用されています。ちなみに「I」「K」は「勇」「かほる」…私と妻の頭文字を取ったものです(笑)。良き理解者でありアシスタントでもある妻には、今も感謝の気持ちで一杯です。
韓国やニュージーランドにも行きました(IK-41,IK-51)。望遠鏡は、私にとって人生最大の道楽でしたね。これでお金儲けをしようなどとは思ったことがありません。趣味の「息抜き」といったところでしょうか(笑)。