最初は10万円ほどで出来る簡単な架台を考えていたのですが、そのうち果てしなく夢が膨らみ「あの装置も、この機能も…」ということで、結局は本格的な機能を備えた「ニュートン式トロートン型赤道儀反射望遠鏡」に決定しました。
柴島中学から40万円もの費用をご負担していただきました。当時、家一軒買えるくらいの費用でした(笑)。もちろん私なりに節約はしましたし、作れるものは皆、自力で作りましたよ。鋼材は大阪湾から廃材を取り寄せ、溶接はもちろん旋盤もフライス盤もみな自分で回しました。
さすがに鏡筒だけは3ミリもある鉄板をローラーで巻いて作るので、鉄工所の人にお任せしましたが、あとの工作物はすべて自分で作りました。そのおかげで…鉄工所にこもる日が多くなって学校の欠席が多くなり、卒業が危うくなったのも事実です(笑)。
ともかく、そうして直径47センチ、総重量50キロ以上もの鏡筒を作りあげました。今の技術なら…さしずめカーボンファイバー製で「片手で持ち上げられる」程度の軽さなんですがね。反射鏡だけでも30キロくらいはありましたから。
これが16歳の時、私が高校2年生の頃のことです。
それからまる1年後の昭和32年12月、念願の望遠鏡がついに柴島中学の屋上に完成しました。総重量は優に1トンを越え、当時わが国で3番目の規模を有する口径43センチ、トロートン型赤道儀ニュートン式天体反射望遠鏡の誕生です。ファーストライトの深夜の月面の輝きは、補助してくれた後輩の中学生、松山君とともに、今も目に焼き付いています。
その後、シャッター付の天体カメラなども開発しました。また、星を見るには日周運動も考慮しないといけない。それでレコードプレーヤーのモーターを使って、赤道儀の自動回転装置も考案しました。これは3年生になってから、だったかな。そんなこんなで…毎日が望遠鏡にハマる学生生活が続いていたのです(笑)。
今も石川さんの工房には、木辺先生の掲載された 新聞記事が守護札のように貼られている… |
先生はお住職の白い衣を身にまとわれ、小柄で優しいお顔だちの中に澄んだ眼差しが印象的な人物でした。研磨室で私の苦労話を一通りお聞き下さり、労をねぎらっていただいた後で、こうおっしゃいました。
「鏡を磨くということは修行の『道』のように奥深いものです。基礎的な技術もある程度必要ですが、それ以上に探求心や応用力、洞察力、また信念、真心といった精魂の部分がさらに必要です。」
そして、しっかり勉強して、まともに学校を卒業するようにとも言われた(笑)。
そして私は(当時も北野からは数人しかいなかったのですが)高卒で日本道路公団に就職したのです。大阪市立大学へは夜学で通いました。これは正解でした。無理してこの道で飯を食っていたら、とても今のようなことになっていなかったと思うのです。