そんな高校一年生の夏休みに偶然1冊の本に出会いました。木辺成麿先生の『反射望遠鏡の作り方』です。街の小さな本屋さんで立ち読みをして…純粋に「星を見てみたい」という気持ちもあったのと、何よりニキビ面した少年の心に鬱積する気持ちが「この夏休みに何かを作ってみたい。やり遂げてみたい」という衝動で一杯になったのです。何時も心にやるせなさを感じる毎日でしたし、エネルギーのはけ口を求めていたんですね。まさに「渡りに舟」という感じで…早速この本を買って帰り、夢中でページを繰りました。
木辺先生はお寺のご住職でもあり、アマチュア天体望遠鏡づくりのパイオニア的存在で、反射鏡研磨の実践と研究を重ねておられ、わが国の天文学の発展に多大な貢献をされていました。私は、ことの重大さもあまりよく考えずに「よし、やってやろう」と思いました。 この1冊の本だけを頼りに、まず材料集めから始めることにしました。
昭和31年当時、終戦から10年ほどしか経っていませんからね。そんな都合の良いガラス材はなかなか見つかりませんでした。町中探し歩いて、ようやく立売堀で元軍艦の窓ガラスを発見したのです。厚さ25ミリ、直径42.5センチ。これを、新聞配達で溜めたなけなしのお小遣いをはたいて購入しました。
実はその横に直径25センチくらいの小さな窓ガラスもあったのですが…しかも、木辺先生の本には15センチ級のものの作り方しか書いていなかった。でも、素人の怖いもの無しとはよく言ったもので…「15センチのものが出来るのだから、少し工夫しさえすれば30センチでも40センチでもワケないだろう」そう軽く考えていたのですね。迷わず、大きいほうを買って帰りました。
後から聞いた話ですが、直径を3倍にすれば難易度は3乗に比例するくらい難しくなる…と。大変なんですね。やはり体積の問題なのです。15センチ級のものと40センチ級のものとでは10倍以上も難しいのでした。ただそれは…作りながら、後からだんだんと分かってきたのですがね(笑)。
今でこそ干渉計などの測定器具がありますが、当時は懐中電灯で鏡面を照らして曲率を計測していました。球の中心から光を出せば、光はそこに集まってきますからね。それで焦点距離や曲面を判定するのです。
私は本を参考にして光源を改良し「フーコーテスト装置」を作って早速、鏡面測定を始めました。ところが、そうして気がついたのですが…25mm厚のガラス板では、薄くて歪みを生じてしまい、求める鏡面精度が得られないことが判ったのです。
これは大問題でした。一度は、研磨を断念することまで考えました。でも、その時の私の心境としては、もう前進はあっても後退はない…という状況だったのです。
そんな時、思い出したのが親父のこんな言葉です。「名工、柿右衛門がカンナをかけた材木は、その木と木を合わせるだけで吸い付いて離れなかった」と。私は「これだっ」と思い、早速、新たにもう1枚のガラスを購入してきて…苦心の末、両面を限りなく平面にして、それらを水と研磨剤をペーストにして張り合わせたのです。
この時考案した「真空セメント接着法」は、40年たった今でも実践しています。
その後も、補正研磨、鏡面テストを重ね、寒くなった冬の日、この鏡を池田市にある通産省工業技術院にもって行きました。心配顔の私に、足立巌技官は「よう、ここまでやったね。1/10μくらいの精度は出ているよ」とお褒めを頂きました。放物面に近くいい面が出ているよという訳ですよ。うれしかったですね。暫く涙が出ましたよ。あとで星を見てもそこそこいい像が出ていましたよ。
結局、工業技術院の御厚意でアルミニウム鍍金を施していただけることになりました。こうして遂に反射鏡が出来上がったのです。この時「Y=X2乗」の回転放物面を前にして、学校で学んだ物理や数学の理論が、具体的な形をともなって実感した…不思議な感慨を覚えました。
それまでは「北野高校生である」という自意識もありましたから、授業は1日も休みませんでしたが、それからが大変でした。平面鏡も作らねばならない。何百キロにもなる鏡筒も…これから作りあげねばならなかったのです。