そんなこんなで家が非常に貧しかったものですから、私は子供心に家計のことを考えざるを得ませんでした。それで母の死後はずっと新聞配達をしていたのです。足掛け約7年間続けましたよ。
北野へ入れたのもこの新聞配達がルーツと言っても過言ではありません。なぜかというと新聞配達は朝3時半頃から6時半頃までに配るんです。それから家に帰っても仕方がないので、ご飯を食べて学校へ行くまでが私の勉強時間だったのです。これがよき日課でした。
寒い季節は息が凍るのです。手袋も凍ります。そんななかでの新聞配達は大いに役に立ちました。負けん気が養われた感じです。北野へ入ってからもずっと続けましたよ。私の子供にまで新聞配達をさせたぐらいです(笑)。
摺りガラスでピントを確認してフィルムに差し替える…アレですね。フォーカルプレーンの動きは難しかったですが、これも工夫に工夫を重ねました。そういう意味ではレンズ・シャッターのほうが簡単でしたね。アルバム写真を撮影したのもレンズ・シャッターのほうです。これでいろんな賞を貰いました。
卒業式の日、学校で初めてといわれる「ものづくり特別賞」というのを頂きました。この賞状、手書きなんですよ。副賞が「シャープペンシル1個」でね。いいでしょ(笑)。卒業式の全校生徒の前で戴きました。
旺文社の赤尾敏夫さんからは「日本学生科学賞」を、続いて「最優秀大阪府知事賞」「文部大臣賞」へと繋がっていくのです。
嬉しい時や淋しさを紛らわす時に、よく「ものづくり」をしました。カメラの他にも起重機を作ったり「自動開閉ごみ箱」みたいなものを作って教室で喜ばれたりもしましたよ。足で踏んでポンと開くやつですね。当時なら特許がとれたかも知れません(笑)。