今も大切に保管されている むかしの商売道具
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それで、関学に予科をいれて5年間通って卒論を書いたら、担当教授に「大学に残るように」言われました。会計学では非常に高名で面倒見のいい先生でした。「論文を4本書いたら大学院教授にもなれるし、公認会計士資格も取れるから…」という誘惑は正直言って魅力でした。
実際…その頃、家業のほうはというと、すでに戦時中の企業統制下で民間の米穀商は軒並み廃業させられていましたから、商売も何もなかったのです。お米が国の配給物資となり、米問屋という流通制度そのものが無くなっていました。とりわけ親父は大阪穀物同業組合の組合長をしていましたので、率先して国の政策に従わざるを得ない事情もあったのです。池萬は真っ先に店をたたんでいました。
もっとも…親父は若い頃から地元の青年団を組織したり、警防団長を務めたりしていましたから、地域社会の人望も厚く、最後は府の公安委員などを歴任していました。ただ、もう年を取っていましたし、商人としての家業は事実上、無くなっていた訳です。
随分悩んだ僕は、教授と相談して一旦は大学に残る決心もしかけていたのですが、しかし、それだと襲名ができません。何よりも、代々続いた池萬の屋号を、僕の代で跡絶えさせてしまうのだけはあまりにも悔しい気がしました。
そうした使命感・抵抗感といった危機意識が、大学卒業・社会人を目前に控えた僕の心中に毎日のように襲いかかりました。「何でもいい…何か商売になるものはないか」再び家業を作りだすような糸口は見つからないか…心斎橋筋や各地に並ぶ商店を何度も何度も往復しながら思案に暮れたのです。