とにかく「欲しがりません勝つまでは」の国防色の強い時代でした。役付きの人は皆さん襟にマークを付けておられましたね。副級長はエンジ色、級長さんは赤でしたか。班長が緑で、兵器委員は黄色でした。
兵器委員というのは兵器庫(旧体育館で屋根が斜めに張り出した部分が兵器の保管庫になっていた)の上に立って「三々七拍子〜」とか、われわれを鼓舞する役の人たちでした。皆さん優秀な人ばかりで、この人たちのことを「六稜の星」というのだと思いますよ。
皆さん、戦中で厳しい思いをしたとおっしゃいますが、個人的に僕は「厳しい」と感じたことはありませんでしたね。一度、不敬にも三八銃をバタンと落としたことがありましたが、その時でも何も言われなかったのです。普通なら当然、ビンタが飛んで来そうなところなのでしょうが(笑)。「イケマンは柄が小さいから…(仕方がない)」と暗黙のうちに許してくれていたのかも知れません。
配属将校が良かったのか、先生が何かにつけ勉強を優先できるように取り計って下さったおかげか…そういえば北野は、あまり通年動員のように工場を決められてずっとそっちに配属される…というような事態は無かったと思います。確か旧西淀川区の友人の何人かが野田の工場に行かされていましたが、その他の多くは防空濠を作らされる程度で、いづれにせよ割と楽だったのです。
和歌山にも3回ほど動員に行かされました。木材をみんなで1本1本運ぶのですが、僕は測量のポールマンに回されて、ずいぶん楽をさせて貰いました。3回目などは「食事当番」でしたから、ずいぶん得をしましたね。
結局そこでも、栄養失調になって帰ってきたのです。何しろ、淀川の堤で草を食んでましたから(笑)。