市村 | 広瀬さんはわれわれの中でも一番野球が好きで上手な人だつた。最初、右バッターで左に転向して、また右に戻る…という器用な人でしたね。勘の鋭い人で、体は小さいが足が速かった。配球を読むのが上手い名キャッチャーだった。 |
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山本 |
われわれ同期は324名が入学したが、その中で目に付いた男が二人いた。一人は…いま、松下電器の一番の下請けで田中電工という会社の社長をしている男。もう一人がこの広瀬…(残念ながら広瀬は去年死んでしまったが)…どちらも小さくてすばしっこく、クセのある美形という共通点を持っておった。 広瀬は絶妙なる勘の持ち主だった。殻は小さいけどピッチャーとしては投げよかった。「勘の良さ」にかけては広瀬以外には清水監督と多湖…それと長谷川かな。 |
長谷川 |
確かに広瀬はスクイズを見破るのが上手かった。
最後の夏の予選で大鉄と試合をしたとき、2死ランナー1塁3塁という場面でキャッチャーの広瀬がボクのところへ相談に来た。 |
山本 | うん、広瀬は舞い上がるほうだが、すごく自己反省もする男だった。 |
長谷川 | 広瀬は結構…長打力があった。ある日の練習でオーバーフェンスを連発してね。そのボールがどぶ川に入って往生したことがある。どぶ川に入って濡れるとボールが縫いにくいンだな。あの頃は毎日、教室でボールの修繕をしていたナぁ。 |
山本 |
広瀬は22年、23年と3番バッターだったが、24年は2番に下げられてちょっとシケとったね。ボクの4番は変らんかったけどね(笑)。 (もうそろそろ来る頃だと思うけど)…品川が、ジーやん(清水監督)に言ったらしい。「自分は9番バッターだが、4番の山本より打率がいい。それなのに何故、自分を4番にしないのか」ってね。そしたらジーやんは「相手投手に対する貫禄が違う」と言ったとか…わっはっは。 広瀬は足の回転が速いので速そうに見えるが、実際はそんなに速くもなかったんじゃないかな。 |
市村 | 広瀬さんは肩はそんなに強くなかったと思うが、インサイドワークが素晴らしかった。ボクはスクイズを成功されたという記憶がないですね。 |
山本 | いやぁ〜スクイズをはずすのは絶勘だったよ。 |
三川 |
阪神タイガースの往年の名キャッチャー土井垣選手が父兄に頼まれて北野へコーチに来ていたことがあってね。みんなの準備が終わるまでの間、マネージャーのボクが土井垣のキャッチボールの相手をしていたんだけど…。 土井垣の球は速いけど柔らかくて、受けていても痛くなかった。広瀬の球はビシッと来て痛かったね。そういえばオール大阪の別当選手(往年の名バッター)も北野のグラウンドへ来て打ってたね。 |
梅田 | そう、北野のグラウンドに練習に来た。「後でボールをやるから」と言われて守っていたが、打球が速かったね。 |
市村 | 上級生はやらないで…でも「守っておれ」と言われて逃げるわけにはいかなかったからね。 |
山本 | 土井垣のクイックモーションは速くて、球ののびも違っていたね。 |
----ここで遅れて品川氏、登場----- | |
品川 |
ボクは最初、陸上部にいて中距離を走っていた。広瀬に熱心に勧誘されて野球部に入つたンだ。あとで広瀬に「おれが引っ張ったから甲子園へ行けたやろ…恩人やぞゾ」と言われたなぁ。 |
山本 |
広瀬も長谷川もボクも一度野球部を辞めたんだ。そのためにキャプテンが広瀬から梅田に代わった…。何故やめたかというと、当時、北野は自殺がはやっていてね。「自殺学校」とか「北野高校じゃなくて北枕(きたまくら)高校や」なんて揶揄されていたぐらい。それで動揺したんだね。 林校長が曰く「生徒が自殺するぐらい、教師にとってどうしようもない事はない」と言ってたが。人生のことを色々考えてね…それで23年に一度、野球部を辞めたんだ。いかに生きるべきかを議論したりして…。広瀬もよく屋上で考えておった「人間はいかに生きるべきか」… |
梅田 | 山本君は2回、辞めたンと違うか。 |
山本 |
やめたのは1回キリ。1度は痔瘻で入院して…「山本次郎が痔瘻だ」なんて言われたょ(笑)。この時に北野は選抜に出たんや(昭和23年)。 清水さんの命を受けて梅田が病院にやって来て「山本、選抜に出てくれ」と言うんだ。ボクは3月8日に退院して石橋から牧落まで歩いた。歩けるなら走れるナ…と思ったよ。それで選抜に出たんだ。この時はよう当たった。打点も多かった。進駐軍の黒人将校が「ヘイ、ナイスボーイ!」と言って握手してくれたモンだ。 |
三川 | 山本のバッティングもさることながら、豪速球を清水さんは買うてはったんとちゃうかな。 |
長谷川 | たまに山本のボールを受けたら、2〜3球で手が腫れてきたくらいだよ。 |