※清水監督(57期)が「まき・ごろう」のペンネームで綴った自叙伝(?)。装丁を同期の手塚治虫さんが担当。黎明書房(1984年)刊。北野高校図書館所蔵【783.M7.1b】。 |
市村 | 清水さんは野球部のOBとして北野へ来ているうちに、いつの間にか監督になっていたという人だった。大阪外大でも野球をやっていたが、自分に満足できない分、われわれにその情熱を注がれたのだと思う。 |
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梅田 | 怖い人だという印象があったね。練習に9人揃わなかった時なんか「こんなチームでやっておれるか」と言って帰ってしまったこともあった。でも…ジーヤンの家に遊びに行っては麻雀をよくやったよ。さすがに高校生やから…お金を賭けたりはしてなかったが…もう時効やけど(笑)。怖かったけどユニフォーム脱いだら親しみのある人だった。 |
長谷川 | あの人は名監督だと思うね。あの人の作戦通りにやったら試合に勝つからね。ただ…京都一中の北本投手だけは攻略できなかった。でも他の名投手と言われる連中はみんな攻略した。不思議だったね…絶大に信頼していたんだナ。 |
品川 |
ボクも怖い人だと思っていた。十三駅から来るのがグラウンドから見えるんだね。ヨレヨレのレインコートを着て、ハンチングをかぶって…難しい顔をして歩いて来るのがね。 考えてみると、優勝できたというのは清水さんに対する信仰的なものがあったように思う。ボクのような9番バッターを辛抱して使ってくれたからね。 |
三川 | マネージャーのボクにとっては特に厳しいと思うことはなかった。選手に対するノックなんかは厳しかったけどね。あの人は名ノッカーだった。 |
品川 | 試合前のシートノックは捕りやすい所へ転がした。自信を付けさせるためにね。 |
長谷川 | ゆるい球、曲がる球…届くか届かんかのトコロへ打ってくる。先週まで捕れんかったのが捕れるようになる。 |
市石 | 頑張れば捕れるというギリギリの所へ打ってくる…名ノッカーですよ。それと、試合全般の流れを把握していた。緻密な野球というのを教えてくれたが、当時としては珍しかった。当時、ジーヤンは23歳ですよ…優勝監督としては最年少だった。 |
長谷川 | テレビで別の人を最年少優勝監督なんて言ってたが…実際はジーヤンが最年少なんだ。 |
山本 | 60期、61期、63期は知らないが…62期は誰もジーヤンに殴られたことはなかった。 |
市村 | 以前、清水さんに聞いたら「誰も選手を殴ったことはない」と言っておられた。でも、ブン回して投げられたことがあるような気はする…(笑)。清水さんは「プロに入っても通用するようなプレーをしろ」とよく言っておられた。 |
長谷川 | ジーヤンはノックで校舎の屋上を超えるような球を打つ人だった。 |
市村 | バッティングは川上くらい打てる人だと思った。細かい野球が出来る人で、神様みたいな監督だと思ったね。 |
長谷川 | ミーティングでよく話をしていたから、実際にはどんなサインが出るか予見できた。広瀬がよくスクイズを見破ったけど…反対にウチのサインはほとんど見破られなかった。 |
梅田 | ボクは北野を卒業して慶応へ進んだが、慶応のサインがえらく簡単だと感じたもんだヨ。 |
山本 | 市村は関西六大学でリーディングヒッターになったんだよな。 |
市村 | でも、ジーヤンからはバッティングについてはあまり教えて貰っていません。技術という面より「考える野球」ということを教わったように思う。バッティングの練習は「2本3回」といって、一人2本打つと次の人に交代する。これを3回やったらそれで終わりだった。ほとんどイメージトレーニングの世界だつた。 |
三川 | クラス対抗の野球があって、そっちのほうがバッティングの練習にはなったみたい。軟球だったけどね。 |
梅田 | 清水さんのことを「監督さん」と呼んだことはないね。面と向かった時は「清水さん」、仲間内ではみな「ジーヤン」だった。今日はお逢いできなくて残念だったなぁ。 |
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