梅田 |
ボクらは昭和19年に旧制「北野中学」に入学した。あの有名な早稲田の伊達正男という人が配属将校で来ていた頃。当時はまだ野球部というのは無くて、ボクは「闘球部」に入部した。今でいうラグビー部だね。 |
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市村 |
たまたま横へボールが転がってきて…硬球というのが珍しくて、これを拾って多湖とキャッチボールをしていたら、それを見ていた鈴木さんに「野球が好きそうだ」という理由で無理矢理、引っ張り込まれたんだ。「ボール拾い」の後輩が必要だったのだと思います。 |
山本 |
戦中戦後は服部農園へ学徒動員で農作業に行っていたんだ。昭和20年の暮れか21年の初め頃…リヤカーに収穫物を積んで十三まで運んで、これを講堂の下に収納するという作業をしていた。その時、近くで多湖がギッチョでボールを投げていたのを覚えているヨ。 |
長谷川 |
少年時代…野球をしていてボールが草っぱらに入ると、長い時間探してもなかなか出てこん。だから、こんな夢をよく見たね。探しているとボールがいくらでも出てきて、ポケットがボールで一杯になる…ってね。物資不足の時代だったからグラブもボロボロのものを使っていた。戦後、初めて大阪野球連盟から皮のグラブの配給があって…自分達に当たったんだ。 |
梅田 | そうそう。授業時間中にグラブの配給があってね…授業を抜けて貰いに行った。先生が唖然とした顔をしてたね。北野に割り当てになったのはその1個だけだった。 |
長谷川 | 兵器庫の前で先輩の鈴木さんが体操帽(戦闘帽みたいな帽子でした)をかぶって野球をしていたのが印象に残っている。昭和23年には甲子園で準優勝まで行ったが…この時でさえ、着ているユニフォームはみんなバラバラだった。ストッキングは上半分が紺で下半分が白のを揃えた。帽子も何とか揃えた。 |
山本 | 主将は初めが広瀬で、そのあと梅田になった。この二人がまとめ役だった。みんなの意見を聞き、練習メニューを決めたのも長谷川で、ストッキングも長谷川が決めた…? |
梅田 | 違うよ。ストッキングをどういうのにするかは皆で合議して決めたんだ。 |
山本 | ボクは母が買ってくれたユニフォームを着ていたが、よく「ステテコみたいなズボン」と言われたもんだ。零細地主だったので毎日腹ぺこで…食い物と言えば薩摩芋と大豆しか食っていない。それでも甲子園に出れた。それを思うと、潤沢だからいいってものでもないナ。 |
三川 |
15年くらい先輩で「ワカモト」にいた阪本さんが中心になってお金の心配をしてくれた。また高橋さん(盛大堂)も頑張ってくれた。東洋紡の川崎元社長はじめ、先輩の所を回ってお金を集めてくれたものだ。学校からの補助はカレヤン(=鈴木先生)がよく動いてくれた。マネージャーのボクは部員から部費を集める程度で、お金の苦労は余りしていない。甲子園に出場が決まってからはお金も結構、潤沢に集まるようになった。 |
長谷川 | 文化祭のバザーの切符を先輩の会社を訪ねて買って貰ったりしたこともあったね。 |
山本 | 当時は封鎖預金の時代で…わが家は4人家族が一ヶ月270円で生活していたナ。 |
市石 |
ボクは小学校が西区にあったので高津中学に入学した。その後、引っ越しで甲子園に住んでいたが、大阪・神戸の空襲が始まって、福井県の小浜へ疎開した。元阪神タイガースの川藤選手が出たので有名な旧制小浜中学に転校したワケだ。ボクはここで野球部を復活させたんだ。 |
山本 | 市石は良くできた。小浜中学の時に存分に勉強したんやろな。こっちは服部農園で学徒動員やらされてたからナ…(笑)。 |