二代歌川國久【うたがわ・くにひさ】作
天保3年〜明治24年(1832〜1891)
杉元仁美
酒ミュージアム(白鹿記念酒造博物館)学芸員
錦絵の続絵になっている。
各左下には「改印」と「豊國画」となっているが、作品年代から安政4年(1857)には初代・二代の豊國ではないことがわかる。一番左の錦絵の右下には「國久画」とかかれており、この「國久」を調べてみると「二代 歌川國久」ではないだろうか。「三代 豊國のちの初代 國貞」の門人であることがわかっている。
すると「二代 歌川國久」は「三代 豊國」の門人だったので「豊國」を名のってのことなのか、もしくは三枚続の一番左の錦絵にのみ右下「國久画」とかかれているがこの一枚だけ「二代 國久」が書いたもので、後の二枚は「初代 國貞」が書いたものなのだろうか。
浅草寺の桜奉納は享保15年(1703)、浅草寺本堂のまうしろに建った念仏堂の開祖・善応が弁天山の左脇から本堂背後へわたる薮だたみを開き、千株の桜を植え、奥山が参詣の帰路コースに加えられもした。この時から“千本桜”の名が生れた。寄附者は吉原の遊女たちで、寄進した1本ずつの桜の木に源氏名を書き宣伝となった。浮世絵師の菱川政信はさっそく桜花の下の遊女を書き上げた。それが「金龍山千本桜」である。