昭和36年春、関係者の祈りが通じたのか移植された二本の老巨木から枝を覆った菰の目を突いて嫩芽が出てきた。そしてわずかながら花が咲いた。関係者一同一安心、地元の人達は大感激、中でも湖底に沈んだ村の老女は桜の幹にすがって号泣した。全国紙は大々的にこれを報道した。ちなみに毎日新聞の記事を書いたのは北野栄三氏(六稜61期、現在和歌山放送会長)であった。ことがうまく運ぶと、それまで移植工事に否定的だった人達や非協力的だった住民の態度が柔らかくなった。翌37年の6月には水没記念碑の除幕式が執り行われ、高碕達之助をはじめとするダム建設側とダム反対の水没した村民の「死守会」双方500人が集まった。挨拶に立った高碕氏をはじめ多くのひとは涙で声が途切れ勝ちになったという。
「・・・・これらの人々には見渡すかぎり、山は削られ川は埋められ・・・索漠たる風景を前にして、老若を分かたず、申し合わせたように誰も彼もみな、この僅かに生き残った二株の桜の幹を手で撫でて声をあげて泣いていた。・・・・村人たちの工事反対の気勢は熾烈を極めたとのことだ。・・・・それが止むを得ない公共の事業とはいえ、いうなれば、追い立てを食らった、それも全く形も留めぬまでに変わり果てて、何もかも沈め尽くされた湖水だけのところに、たまたまやっと残った二本の桜にどうして斯くも大勢の人が涙してすがりつくのかと、人の心の細やかさ、むずかしさに、私は式の始まるのを知らされるまで、この湖畔に佇っていた。」
二本の桜は「荘川桜」と命名され、高碕氏の詠んだ歌の歌碑が建てられることになった。
ふるさとは 湖底(みなそこ)となりぬ うつしこしこの老桜 さけとこしえに
高碕達之助、笹部新太郎、丹羽政光と、この荘川桜大移植の立役者三人のうち、充分に枝を広げた満開の姿を見ることが出来たのは笹部新太郎ただ一人だった。高碕氏は除幕式の翌年2月に79歳で生涯を終え、丹羽氏も時を同じくして病に倒れ、後を継いだ丹羽克巳氏までが交通事故で急逝した。