洞中廊間桜図 【どうちゅうろうまさくらず】 (1819年/文政2年) |
禁中左近桜図 【きんちゅうさこんさくらず】 (1818年/文化15年) |
法量:縦95.0×横27.2 cm 広瀬花隠【ひろせ・かいん】:作 |
東西古来より<桜>と<橘>が植えられてきたことはよく知られています。元来、東の桜は梅であったが仁明天皇の頃(834〜847)に桜に植え替えられ、<左近桜>と呼ばれるようになります。そして、代々の多くの天皇がこの左近桜の下で<花宴>を催したといわれています。
画中には
“文化十五稔 戊寅 三月於 紫宸殿左近桜 叡覧之”
“文政二歳 己卯 三月於 洞中勅銘廊間桜 上皇 御覧之後謹拝寫之”
花隠がこの左近桜を見ることが許されたのは、仁孝天皇在位(1817−46)の時、文化15年(1818)の三月春のことです。字体にはまじめに謹み深くして、何か誇らしげな余韻が表されています。翌年の文政2年(1819)には上皇の住む「仙洞御所」にあった廊間桜を描くことが出来たのです。
花隠=桜画家にとってはその名誉は計り知れぬもので、この業績により「海内櫻畫仙」なる雅号を朝廷より受けたといわれています。
<広瀬花隠>とは
花隠の桜画は、初めは師である思孝の画風を伝えていましたが、独自の画風を築き、画面裏側に墨や藍を薄く掃いて着彩する「裏彩色」と呼ばれる技法が使われています。桜の花弁は胡粉を使って、花弁の中心部分はなるべく色を抜き、花弁の重なりあった部分によって白の濃淡をつけ、透明感を生み出し一枚ごとに丁寧に描写されています。 現存している花隠の作品は絹本に描かれた掛幅のものが多いのですが、一枚の色紙に一枝の桜花を描いたものも数多くあります。これらの作品には年記がないため、花隠の画風の変化を知ることができません。しかし唯一作品に年記の入ったものが笹部さくらコレクションの中にあります。それが今回紹介する作品です。さらに京の「聖護院村」にはかつて藤原成範卿こと桜町中納言の御霊を祀る<桜宮>が「桜塚」とともにあったといわれ、それを彼は桜町中納言の命日3月16日650回忌にあたる日までに宮内に36種の桜を植え、花隠自ら描いた36種の桜画を描き、公卿・大名・旗本衆を訪ね130余名より、自分の<桜画>に対して詩歌画賛を一首依頼し、それ以外に90余種の桜花の写生図と各々の花の押し花を展覧しようと<桜宮>再興の夢を抱き、“桜宮”なる「花の神殿」建設のために寄付を募っていたのです。 しかし、無念なことに花隠の努力はむなしく、<桜宮>は建立されることはなかったのです。 『甲子夜話』続編巻84には、花隠の「桜宮造立勧進」とともに「造立百分一全図」までもが書き残されています。 |